Scribble at 2023-12-06 09:38:29 Last modified: 2023-12-06 09:56:27

添付画像

The styling system that powers

StyleX

技術に罪はない、というのは僕は嘘だと思っている。嘘というのが言い過ぎだとしても、それは建前にすぎない。なぜなら科学の理論とは違って、或る問題を解決するために技術は考案されるのであって、その課題が不正であったり間違っていれば、それを解決する技術はどれほど複雑だったりエレガントだったろ巧妙だったり美しかろうと、やはりそれは的外れなことであって、表面的な利点にすぎない。IT あるいはウェブの技術者やライターあるいは評論家と称する人々の多くが、得てして幅広い知識や経験をもたずに、こうした表面的にクールで美しく巧妙なだけのプロダクトや技巧を無条件に称賛し、二言目には「テクノロジーに罪はない」と言い張るのは、もうそろそろ賞味期限切れの駄菓子みたいなものとして口に入れなくてはならない。

たとえば、多くの企業なりサイトで掲載している個人情報保護方針(プライバシーポリシー)のフォーマットを世界中で統一するような XML というかデータ形式や文書のフォーマットを決めて提唱しようというアイデアがあった。でも、そういうアイデアを規格のようにまとめるのが GAFAM を始めとするアメリカの IT 巨大企業の技術者や法務の人間であったりすると、彼らは MIT やスタンフォードの博士号をもっていたり、あるいはハーヴァードの法科大学院を出ていても、しょせんはマーケティング部門や経営陣の操り人形であることが多いため(だって、サラリーマンだもん!)、純粋に技術的・法的な観点だけで規格を考案できるわけがなく、必ず自分たちが所属する企業の現行サービス(あるいは予定されているサービス)の展開にとって有利な条件を規格に盛り込んだり、あるいは後続のサービスが参入しにくいような障壁として機能するような規格に仕上げてしまう可能性がある。当然だが、そう怪しむ人も多いし、EU のようにアメリカの IT 企業だけが決めてしまうようなルールには懐疑的な国が多い状況では、そのような人権に関わるような規格を勝手に打ち立てられることには抵抗がある。

もちろん、技術そのものは数学的に破綻していない限り単なる形式であって、それじたいが人権を侵害したり人を殺すわけではない。あたりまえだが、他人のプライバシーを軽んじたりするのは、それを採用して業務に携わったり具体的なアプリケーションを開発したりページをデザインする、エンジニアでありデザイナーであり経営者という人である。しかし、技術や理論というものは sine qua non(それがなければありえない)ようなものではない。ひとりでにどこからか湧いてくるわけではなく、純粋な形式であっても人が何らかの目的や事情や経緯で見つけたり考案するものなのである。自然を著作物に喩える話はよく聞くと思うが、それは「神」が手掛けて人が読む書物というよりも、誰かが目的や動機をもって書きとめた測量野帳のようなもの(そこには測量した結果だけでなく推測や妄想も書き込まれている)だと思う。

ニュートンが物理法則を発見しなかったら、われわれの暮らしは豊かになりえなかっただろうか。確かにニュートンから続く物理学の進展によってこそ、始めてわれわれは iPhone を手にしたり、e-sports に明け暮れたり、VR のアダルト・ビデオを眺めたり出来るのであろう。でも、そんなことが僕らの人としての生き方において「豊か」だと言えるための不可欠の条件かと言えば、そんなことはない。確かに、マット・リドレー氏や山形浩生氏らの言うように、確実に僕らはテクノロジーのお陰で江戸時代の大多数の水呑み百姓よりも安全で気軽な暮らしを送っているけれど、だからといって無条件に「豊か」であるとは思わない。それは、いくら iPhone を手にして気楽な暮らしをしていても、毎年のように世界中で何十万人もの先進国の人々が自殺しているという事実でも明らかだろう。

かなり遠回しな議論を続けてきたが、要するに meta がどれほど優れたスタイルシートのライブラリを考案して実装・運用していようと、やってるサービスが「カス」であることに変わりはない。技術が技術的な観点で優れていることは、それを利用しているサービスの正当化や弁解には使えないのである。そして、それらの技術が実装されるサービスの目的や影響にとって関係がないとかニュートラルであるなら、恐らくはその無害さをアピールするだけの役割しか無い、この手のサイトこそ悪質と言うべきではないのか。無頓着や無関心や無知無教養は、哲学者としての僕に言わせればそれ自体が罪である。そして、理論や技術は常に他のようにも考案できる alternatives があるのだから、そうでしかなし得ないようなことなど殆どないわけで、このようなライブラリがなくてもユーザビリティやアクセシビリティを有効に実現できたり、クールなデザインを実現できる他の方法がいくらでもあるし、それどころか meta のマーケティング目標にとって有利な他の方法すらいくらでも考案できるのだ。そして、そういう可能性を選択肢としてもっていたり、少なくとも他の選択肢があると知っているからこそ、僕らは技術者やデザイナーとして「有能」だと自認できるのだ。

つーか、React 前提の部品なんて、デザイナーとしてもぜんぜんクールに感じないんだよね。ガキのオモチャだろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook