Scribble at 2025-11-11 10:04:01 Last modified: 2025-11-11 10:04:11
先の落書きでは、フレーム問題などへ言及しながら、有能なサラリーマンである僕らは生成 AI を活用する側であって、(簡単には)駆逐されたりしないという話をしたのだが、どうもフレーム問題については精緻な議論をする事例が少なくて、雑に「AI の限界」みたいなフレーズを振り回して喜ぶ都内の三文文士たち、ああ、「独立研究者」とか呼ばれてるスノッブもいたっけ、ともかくそういう連中の玩具になりがちだ。もちろん、科学哲学でも特に我が国では議論している事例が殆どなくて、いつものようにグダグダと海外の哲学者のコメントまがいの浅薄な議論を引き合いに出しつつ、しょーもない印象批評を『現代思想』あたりの雑誌に書いて済ませるていどの成果しか出ていないと言える。
フレーム問題が真に手強い問題であるのは、まさしく個々の場面でフレームだと言いうるような、フレームの要件がわれわれ自身にもわからないからだ。これは、「意識のハード・プロブレム」などというでっち上げ(これは単に、主観的で個別的な経験と、客観的な記述を理解する経験との違いにすぎないというのが僕の所見だ。こんなもの、最初から、そして原理的に違っているのが当たり前であろう。ハードであろうとなかろうと、何を悩む必要があるというのか)とは違って、それなりに検討して、もっと精緻な議論を展開したり押し進めるだけの価値がある問題だと思う。
とは言うものの、フレーム問題はコンピュータ・サイエンスでもさほど大きく扱われていない話題だ。arXiv で検索しても、ただいまの時点で27本しか論文がヒットしないのは、"diffusion models" を検索した結果(15,282本)と比べても圧倒的に少ない。そして、ヒットしている論文についても、その多くはフレーム問題を何らかの制約条件でディスタンスを決定するアルゴリズムとして捉える傾向があって、決定論的とまでは言えなくとも、何らかの認知的あるいは生理的な特性だとか記憶や経験のような要素を無視した、非常に融通の利かない理屈で解決したりシミュレートしようとしているように思える。
もちろん、フレーム問題の困難が相手との(自分自身も含めてだが)コミュニケーションによっても是非が決まるような特徴をもつなら、それがアルゴリズムだけで決められないのは当然であり、その特徴を前提にしてコンピュータ・サイエンスでの議論を批評することは、論点先取のおそれがある。それゆえ、この議論は寧ろ科学哲学のような分野で取り組む必要があると思うのだが、どうも国内で AI だ大規模言語モデルだと昨今の流行語を振り回してカンファレンスを開いている都内のプロパーには、東大暗記小僧的な受験センスだけで哲学的な才能が単純に欠落しているのか、いまいちピンと来ていないらしい。