2018年04月26日に初出の投稿

Last modified: 2018-04-26

新井氏は、2018年3月に開催された「第80回 情報処理学会 全国大会」の基調講演で、「現在、小学校教育を受ける日本人の子どもの大半は、プログラミング学習に必須の『定義』を理解するだけの読解力を持っていない。この状況で子どもたちにいくらプログラミングを教えたところで、AIが広く普及する将来、満足な収入を稼げるだけのスキルにはつながらないだろう」と語った。

「東ロボ」を主導した数学者が「読解力がない子どもにプログラミングを教えても、意味がない」と主張する理由

連れ合いがシェアしていた記事であり、もちろん僕も賛成だ。いま流行している、ガキにプログラミングを教える夏休みイベントとか塾みたいなものは、はっきり言って小学生の頃からアセンブラや Basic で遊んでいた僕からすると、ケツすら拭かないで紙幣を投げ捨てる肥え溜めみたいなものだ。こういうことをやって Butler Lampson みたいな人物が育つ可能性は限りなくゼロに等しく、大量の IT ブルーカラーが続々と出てくるだけだろう。

あと、間違った情操教育や早期教育はプログラミング(ていうか、たいていは「コーディング」にすぎない)に限った話ではない。

日本語ができない子供に日本で英語を教えても、英米圏のカルチャーを理解していない、英単語や英文法を扱える人物が完成するだけで、それは日本人としての常識的な感覚や理解度が不足するだけではなく、アメリカ人としての生活感覚や常識も不足している、ヘンテコな人物であるということを、もう少し文化人類学者とか社会学者とか言語学者の知見を動員して主張した方がいいと思うんだよね。もちろん、「日本人である」とかないとかいうことを何か良い(悪い)事であるかのように前提しているわけではない。そういうヘンテコな人物も面白い生き方はできる。そして、言語を習得するということは、とりわけ大人になって習得する場合はなおさら、「アメリカ人」になるなんてことが目的なのではないから、そこをちゃんと割り切っていればいいのだが、どうも日本の教育ママは違う期待を抱いているらしい。

ポストモダンの人々がお好きなように、そういうマージナルな人々が何らかの特殊な文化をつくってきたという事例もあるから、一概にそういう人々が何か奇形的というわけでもなかろう。或る意味では、色々な既存の文化を渡り歩いたり横断するような、ひょっとするとクリエーティブな生き方かもしれない人生になりうる。でも、英語の情操教育をやってる東大ママとかは、自分の子供が華僑みたいな人々になることを夢見ているわけではあるまい。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook