Scribble at 2025-05-25 00:42:14 Last modified: 2025-05-25 06:59:52
あと、おまけにもう一つ書いておくと、今日は実家で池上彰氏の特番を観ていて、そこでフリー・スクールに敢えて最初から子供を通わせる親がいるという話をしていた。子供が虐められたとか、何らかの(肉体的でない)障害で適応が難しいとか、そういった理由で避難としてフリー・スクールに行くしかないというよりも、フリー・スクールで好き勝手に好きな時間に勉強するほうがいいという理由らしい。もちろん、それがだらしのない子供の甘えにすぎないのか、そんなことは親も誰も本当のことはわからない。そういう子供がいても別に僕は教育行政としてはどうでもいいと思っていて、本当にそれで学びやすくなるならいいし、単に好き勝手に一人で過ごしたいだけのガキなら、そのあとの人生がどうなろうと僕らは知ったことではないし、行政が少しはそんな連中も福祉としてサポートすることになるのだろうとは思うが、まさか10人に1人がそんな人間になるとは思えないわけで、自堕落な人間が少しはいるなんてどこの国でも普通のことだ。そんなアノマリーだけで、教育行政の方針を変えてフリー・スクールを正式な教育機関として認定する必要などない。社会には、実際にはどうなのか誰も知らなくても機能するようにできている「凡人を守る防御機構」、つまり社会学者がよく言う「排除装置」があるのだ。番組ではフリー・スクールに通う子供を何の根拠もなく gifted だなどと、みながみな神童や天才であるかのように嘘の印象操作をしていたが、実際には神童がフリー・スクールに通うことなどない。それに、そういう排除装置にとっては、学校に通っていない子供が自堕落な子供にすぎないのか、それとも gifted なのか、実はどうでもいいのである。なぜなら、「神童」や「天才」というのは社会学的な一種の制度なのであって、明白な業績、たとえば難問とされる数学の定理を証明するとか、10歳未満でハーヴァードの入学を許可されるとか、そういう親や周囲のお膳立てで成果を上げた人間だけにつけられるレッテルなのである。
そして、僕はいつもこういう議論には違和感を覚える。つまり、こういう話題を気楽に喋る人々、それから研究する教育心理学者とか社会学者、あるいは自分で自分の子供をインターナショナル・スクールやらフリー・スクールやらに行かせようとする意識高い系やリバタリアンの親、それからそういうところにこそ自分の居場所があるみたいなことを言う本人、僕は、こういう人たちは何か致命的なことを無視してものを考えたり悩んだり喋ったりしているように思えるんだよ。
僕が違和感を覚えるシグナルの一つは、「個性」という観念だ。僕は、仮に数学で幼い頃から並外れた才能を示す子供がいたとしても、果たしてその子は「数学」の才能があるのかどうか疑問があるんだよね。どうしてかというと、確かに高度な数学の問題を解くのが好きだったり、実際に問いているのは分かるにしても、それは彼の特性や適応の対象が既存の「数学」という分野とか問題とか、ともかく既製品の玩具しか遊ぶ道具がないからだけじゃないのかという気がするからなんだよね。その子のもつ特性は、ひとまず数学の問題を解くというところに現れているのだろうけど、それが果たして彼らの才能を必要十分に開花させるようなステージなんだろうかという保証も確証もないと思う。つまり、本当に親が子供の「個性」などと言ってるのは、その子にとって本当に適したことなんだろうかという疑問がある。たとえば、自宅にたまたまあるピアノが弾けるというだけで英才教育をしようとする親なんてたくさんいるわけだけど、その子はピアノを弾くことに適応した才能があるのか、それとも実は別の指の操作を必要とする分野にこそ更に高い適応力があるのか(たとえばプログラミングかもしれない)。
そして「個性」について思うことは更にあって、これはよく言われることだが、そもそもあなたの子供には(いや本人に向かって「そもそも君には」と問うても良い)「個性」がないといけないのかというポイントはどうしても提示せずにはいられない。人が生きること、しかも善く生きることだとか、あるいは幸せに生きるとか、指標はなんでもいいが、そのために「個性」だけが必要だなんてことはない。たとえば、金儲けや社会的な地位などは、才能があればいいのであって、別にそれが他人と明らかに異なる個性である必要は特にないわけである。なんで個性がないと「いけない」という思い込みがあるのか、僕にはちょっと理解しかねるところがあるのだ。僕に「個性」はないが、特に大きな支障もなく生活している。それはたぶん、個性なんてなくても、とりあえず国公立の大学院博士課程に進めるていどには有能だし、ネット・ベンチャーで技術系のトップを任されているていどには有能だし、それから高校生の頃から同級生はもちろん上級生や下級生にも僕のファンがいたていどには外見に問題がなかったからだろう。いや、大半の人々においては、つつがなく人生を送るにあたって、「個性」どころか、そういう才能すら必要ではないわけである。なんで「個性」なんてものがないといけないのか。