Scribble at 2021-08-28 08:55:41 Last modified: 2021-08-28 09:22:08

ここ数日は『7つの習慣』を丁寧に読んでいたせいでペースが遅れてしまっているが、翻訳については何度か指摘してきたように問題があるものの、通俗的な読み物として多くの読者を得ている本書の内容そのものには色々と感心させられることが多い。だが、哲学者として言わせてもらえば、やはりそれは「キリスト教」という思想あるいは枠組み(当人の言い方なら「パラダイム」とやら)の中で展開できる限りでの議論の力である。そこには長い年月をかけて築き上げられた堅実な立論や観点が多いため、個々の論点について力強い説得力はある。しかし、その枠組みが強力であればあるほど、色々な概念の枠組みを体系的に組み立てる訓練を積んだ者にとっては、枠組みどうしの違いが分かりやすいため、なおさら本書の限界もはっきりと見えてくる。

特に、第三の習慣を説明し始めると急に出てくるメモ帳やカレンダーといったノウハウの話や、かなり唐突に展開されるコンサルのような図式的説明に違和感を覚える人がいると思う。しかし、それは人物や金銭や書物といった特定の何かではなく「原則」という名の内なる教えに従って判断し行動するという、現実の身の処し方を示すものだ。 ここに至って、著者は原則という概念の抗い難い要求に従って何事かを〈支配〉し〈管理〉し〈制御〉するという強い志向を読者に求める。そして、このような「主体性」をもつ〈制御志向〉と言うべき発想は、キリスト教だけに限った話ではないが、根本的な動機として〈やがて来る死への恐怖〉という予感に根ざしていると思う(僕は terror management theory を万能の解釈だとは思わないが、宗教に関しては有効な解釈だと思う)。

こうした議論は、ここ最近の流行語で言えば「メタ」とか「マウンティング」とか「上から目線」とか「論破」などと言わたりするようだが、もちろんわれわれ哲学者は単なる論争家でもなければ、愚劣なテレビ番組の「コメンテーター」、あるいは新聞などに浅薄な「正論」を書いて識者を気取る無能な大学教員や作家風情ではないので、われわれ自身の観点が「上」なかんずく神と同じ妄想の領域にすぎない〈最上位〉にあるなどというファンタジーは持ち合わせていない。上とか下とか、バカに最適化したイラスト的、図式的な手段でしかものごとを理解したり説明できない人々に敢えて親切に教えるなら、哲学者というものは或る概念の体系や議論を多くの切り口で、あるいは多くの角度から、あるいは多くの次元において、あるいは多くの側面について分析する。「あらゆる次元」や「あらゆる側面」などと言うのは、分析する者によって脈絡や目的や動機が異なるからであって、単に多くの者が多くの機会に分析できるという可能性を言っているにすぎない。一人で一回に〈全ての可能な側面〉を分析することなど不可能というものだ。

したがって、『7つの習慣』という著作物に読み取れる色々な主張や提案、あるいは(信者や、これで商売をしている方々には失礼ながら)錯覚について、われわれ哲学者は何らかの特殊な天賦の才能ゆえに批評できると錯覚しているわけでもなければ、「上」という何か特権的な観点を、東大や京大やパリや Oxbridge やハーヴァードの大学院へ通うていどの些末な実務によって獲得できると妄想しているわけでもない。人のやることなど、しょせんは絶対に限界があり、その有限な実績を何億年と積み上げようが完結せず、そもそも完結する前に宇宙は〈終わり〉を迎える。それは宇宙の物理的な有限性から言っても当然のことであり、そしてそれは、現代の宇宙論など知らなくてもヒトの寿命という明白な事実から簡単に祖先たちが類推してきたことなのだ。宗教はそういう真実に抗う認知的な対抗(ないし防御ないし拒絶)反応から生じる不安や恐怖をごまかすための観念、あるいは音楽や絵画や演劇などの表現を含めた意味での〈言語的な催眠術〉にすぎない。それが強力な催眠術であればあるほど、人は強い信念をもって数々の尊い行いを続けたり、『7つの習慣』という本を書かせたり、逆に爆薬を抱えて近くのレストランに突っ込んだりするのだ。

本書の端々で語られる「主体性」や「率先力」といった表現に見て取れる強力な〈制御志向〉は、矮小な生物個体にすぎないヒトが自らを有限なる力や有限なる人生しかもてない〈何者か〉であると認めるがゆえに、強力な議論を支える原則として打ち立てられている。これはこれで、日本の安物アドラー本や自己啓発セミナーの教材などが及びもしないところがあり、なるほど長年にわたって多くの読者を得ているだけのことはあると敬服させられる。(もちろん皮肉ではない。その証拠に、僕は『嫌われる勇気』なんて哲学者としてどころか企業の部長としてすら1行たりとも読む必要を感じない。あんな本に書いてあることなど、〈大人〉になれば分かるのだ。)繰り返すが、僕は本書を読むなとも言わないし、モルモン教のパンフレットだと言っているわけでもない。個々の内容については教えられることがあって、実際に僕が生活したり仕事に取り組む際の参考にしたいところもある。色々な自己啓発本を読み流すこと自体に埋没するような暇潰しに時間や労力やお金を浪費するくらいなら、本書を手にして何度も読んで考え、自分の仕事や暮らしに当てはめてみてもらうことが望ましいとすら言える。

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