Scribble at 2021-08-28 23:10:12 Last modified: 2021-08-29 14:39:27

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フレデリック・W・テイラー『新訳 科学的管理法 マネジメントの原点』(有賀裕子/訳、ダイヤモンド社、2009)

本日は古典とされるテイラーの『科学的管理法』を読んだ。テイラーの科学的管理法を言葉として初めて聞いたのは、確か、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』という深夜のお喋り番組で、「しょせん日本は東大社会か?」という教育関連のテーマを扱っていた放送にて、観覧席にいた立教大学の学生と名乗る人物が質問していたときに口にしていたのを覚えている。30年前くらいの話だ。舛添要一氏が、まだ東大の助教授だった頃のことである。

そのあと、経営学の古典を読む必要性を感じないまま何年も経過していた。それに、企業の役職者になったからといって、先日も書いたようにビジネス本を読む気にはならなかった年月が長かったし、加えて古典的な著作物というものは手に入りやすいものと手に入り難いものが極端に違うため、もっと早くに読もうと思っても簡単には手に入らなかった可能性もある。それでも、本書を書店で見つけたときは即座に買っておこうと思って手元に置いていたのであった。

実際に通読してみた感想としては、単刀直入に言って経営学の歴史に興味がある人は何度か読み返す価値のある有用な本だと思うが、既に100年以上が経過している今日の企業経営者にとって、万難を排してでも手に取って読む必要がある本だとは、とても思えない。僕は、通読して印象を心に留めただけで満足したので、ノートも取っていないし、古本屋へ送る候補の一つに加えた。

本書の中盤以降は、テイラーが科学的管理法を提唱するに至った簡単な経緯が語られたり、幾つかの生産施設で科学的管理法を実地に応用してみたケース・スタディが紹介されている。経営学や産業の歴史に興味がある人を除けば、はっきり言って読む価値があるとは思えない無駄なディテールの記述がえんえんと続く。そして、そもそも「科学的管理法」がどのような経緯で定式化されるに至ったのかという説明は、実は殆どないのである。これらは前半で天下り式に幾つかのスローガンのようなものとして示され、それらを実地に応用して成果が上がった(からこそ正しかったのだ)という話だけが紹介されるので、それらのスローガンについては説得力のある論証や実証がない。

そもそも、科学的管理法の考え方(「哲学」)と手順や方法は別物なので、手順だけを性急に実地に応用しても上手く行かないと強調しているが、その明確な根拠はない。あるとすれば、そうやって急いで応用したら失敗することが多かったという経験だけだ。しかし、それを経験だけで説明せずに組織や人の行動や心理によって説明しようとすることが、社会科学としての〈経営の学〉である筈だし、「科学的」な業務プロセスの管理方法というものであろう。要するに、現実の業務に当てはめるのに時間がかかる最大の理由は〈人間関係の構築に時間がかかるからだ〉と言っているようにしか読み取れないのであり、そして現代のわれわれ企業人なら、まさに人間関係の効率的で的確な構築や維持や向上がマネージャの仕事の一つだと理解しているであろう。人間同士の付き合いを良くすることが大切だといった、はっきり言ってヌルい話だけをされても困る。僕は、ビジネス書と分類される書物の中でも「組織論」や「対人関係」の議論を参考にしたいと思って集めているため、そこをスルーされると読む価値はないなと思ってしまうのだ。原理原則は正しく、それをうまく労働者や監督者に説得できれば成功するし、説得できない相手は首を切れと言っているだけに読める。こんなものは、いくら萌芽的な時代の議論だとしてもマネジメントの名に値しない〈態度〉や〈原則〉だと思う。それこそ、こういう原則の成功例こそが、ただの属人的な事情で上手くいっただけのラッキーにすぎなかったのではないか。そういうわけで、寧ろ科学哲学者としての僕は、こんなものを「科学的」と称していた時代の見識についてこそ、皮肉ながら STS や科学史の観点から別の意味で考察できそうだが、まぁ大して有益な成果が出てくるとは思えない。

余談だが、訳者の有賀裕子氏も指摘しているように、100年前のアメリカという当時の事情ゆえにか、いま読むと不謹慎な記述が幾つもある。教育水準の低い人々とか酒好きの人間に対する態度だとか、あるいは単純労働にどういうタイプの人物が適しているかとか、もちろん当人は侮蔑しているわけではないと断ってはいるものの、〈何を〉侮蔑していないと言っているのかは曖昧だ。したがって、後に多くの著者から労働者を実験動物あるいは道具扱いしているとか、つまりは賃金や雇用や就労条件やノルマで〈制御〉する対象としか見ていないと酷評されるのも分かる。もちろん、それだけで切り捨てて良いとは限らないというアカデミックな理屈で擁護するのは学者が好きにやればいいのであって、われわれ企業人はそういう(恐らく社会科学の水準においても)些事に関わる必要など全く無いと言いたい。

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