Scribble at 2025-02-04 13:11:57 Last modified: 2025-02-04 13:15:48

添付画像

これは写真じゃなくて生成 AI で作った画像だよ。

これは何度か書いたはずだが、僕は写真というものは「カメラで撮影できること」を表現しているにすぎず、それ以上でも以下でもないと思う。なので、いま古本で手に入れた『美術手帖』に柴崎友香氏の文章を見つけたのだが、「自分自身がカメラのようにそのまま写るものをとらえたい」と書いていることに違和感を覚える。もちろん、カメラのように写された状況を知覚として経験することの方が好ましいと思う人がいてもいいけれど、僕はカメラで撮影しているように身の回りを経験したくはない。なぜなら、そもそもカメラの撮影は僕らの知覚的な経験を絶対に再現などできはしないからだ。

良い悪いは別としても、たとえば老眼であること、ドライアイの症状があって目が開けられなくなること、焦点を合わせている箇所の周りは殆ど焦点が合っていないし、実際に脳は周囲の大半の情報(形や色ですら)を捨てて処理していること、これらを現実のビデオ・カメラですらリアルタイムに再現なんてできはしない。ましてや静止画しか撮影できないカメラにできることは限られている。写真は、どう考えても見ている人が大量の関連する脈絡を想像したり付随する情報を読み解いたり無視したり解釈することでしか成立しないわけだし、その多くは現実に僕らが周りを眺める経験と比べて圧倒的に情報が不足せざるをえないわけである。これを「再現」などと言いうるていどに写真で増やす方法など存在しない。写真の脇に大量の文章を掲載して解説したところで無駄である。

もちろん、僕はこういうことを色々と書いているからといって、その事実だけで写真が芸術として何か欠落しているとか、あるいは僕らの経験を「再現できないから駄目だ」とか、そんな愚かなことを言いたいわけではない。寧ろ、写真とはそういうものであるからこそ芸術としての役割や効用や特殊な美意識というものを持ち得るのだと思っている。それは僕ら自身が生物として脆弱で、そしてたいていは戦争や下らない争いや犯罪を繰り返す愚かな種であるという限界をもっているにもかかわらず、芸術なんてことをやっているのと、本質的には同じことなのだ。

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