Scribble at 2026-02-19 11:47:56 Last modified: 2026-02-19 11:52:51
Privacy is something that is important to us at least in part because of other people. It can be valuable to help us to regulate our different social relationships, and show different sides of ourselves to our lovers, mentors, friends’ children, etc. In this paper, I argue that this is a good but incomplete account of the value of privacy. Privacy is also important in a non-social way, that doesn’t make primary reference to other people but that instead is about self-understanding and self-expression on one’s own terms. I begin by explaining what the social value of privacy is, and showing that it explicitly and implicitly affects a number of other ongoing debates in the contemporary privacy literature. I then argue for the non-social account of the value of privacy in Section 3. Finally, I look at two particular cases in digital ethics that the non-social account gives plausible verdicts for.
今回は、まずベンサムの上の論文と、これに対するベッカーの批評とを一つにまとめて取り上げる。
ベンサムはまず、現代のプライバシー論で支配的なジェームズ・レイチェルズ(James Rachels [https://en.wikipedia.org/wiki/James_Rachels])の考え方を「プライバシーの社会的価値」として整理している。レイチェルズは、私たちが恋人や友人、上司といった相手に合わせて「見せる自分」を切り替えることで多様な人間関係を構築・維持しており、その制御こそがプライバシーの本質的な価値だと説いた。ベンサムもこの価値自体は否定していないけれど、これだけではプライバシーの価値を「半分」しか説明できていないと主張する。
彼女が提示するもう半分の価値、つまり「非社会的価値」とは、他者との関係性を一切抜きにしても存在する「自分自身のための自己理解と自己表現」のことだ。ベンサムはこれを説明するために、誰に見せるためでもなく、ただ自分が自分らしくあるために化粧をする女性の例を挙げている。彼女にとっての化粧は、他者へのプレゼンテーションではなく、自分の内面を外部に表現し、自分が何者であるかを自分自身で確認するための「自己ケア(self-care [https://en.wikipedia.org/wiki/Self-care])」の儀式だ。この視点に立つと、プライバシーの価値は「他人に知られないこと」という消極的な側面だけでなく、「自分だけのものとして保持する(keeping some things to ourselves)」という積極的な側面を持つことになる。
この議論の面白いところは、ベンサムがこれを単なる抽象論に留めず、現代のデジタル倫理(digital ethics [https://en.wikipedia.org/wiki/Digital_ethics])における切実な問題に結びつけている点だ。彼女は特に「精神状態直観(Mental States Intuition; MSI)」と呼ばれる、既存のプライバシー論に深く根を張った前提に疑問を投げかけている。MSIとは、「誰か他人が自分の情報を知ったり、見たりという『精神的な活動』を行わない限り、プライバシーは侵害されたとは言えない」という考え方のことだ。しかしベンサムは、この前提はプライバシーの「社会的」価値に偏りすぎていると指摘する。
例えば、アルゴリズムが個人のデータを収集し、人間が一度もその中身を目にすることなく機械的に処理・売買されるケースを考えてみてほしい。従来の「社会的価値」やMSIの立場からすれば、誰もあなたの情報を「知って」いないのだから、人間関係への悪影響もなく、プライバシー侵害とは呼びにくいという結論になりがちだ。しかし、ベンサムの「非社会的価値」の視点を導入すれば、たとえ他人の目に触れなくても、「自分だけの領域(own domain)」にあるべきアイデンティティの一部が、勝手に「何者か」や「何物か」に扱われること自体が、自己理解の基盤を損なう問題として捉えられるようになる。
結局のところ、ベンサムが言いたいのは、プライバシーとは「社会という劇場でうまく演じるための道具」である以上に、「劇場の外で、たった一人の自分として存在し続けるための聖域」だということだ。他者が介入してこない領域を確保すること自体が、人間が自分を自分として形作るために不可欠なプロセスであると彼女は結論づけている。
これに対して、マルセル・ベッカー(Marcel Becker)による批評が同じ雑誌で後から公表されている。そして、その批評の核心は、プライバシーという概念が歴史的に「個人の孤独」から「社会的な情報の流れ」へと焦点が移ってきた中で、ベンサムが再び「個人の自己理解」という視点へ揺り戻そうとしている点にある。
ベッカーはまず、プライバシー論壇の歴史的な変遷を「振り子」に例えて解説している。かつてプライバシーは、ウォーレンとブランダイスが提唱した「一人にしてもらう権利(right to be let alone)」のように、公衆の目から離れた個人的な状態を指していた。当サイトでも、ウォーレンとブランダイスの論説を(原文だが)公表している。で、アラン・ウェスティン(Alan Westin [https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Westin])の『プライバシーと自由(Privacy and Freedom )』に代表されるこの伝統的な見解では、個人の自律性(autonomy [https://en.wikipedia.org/wiki/Autonomy])や孤独こそがプライバシーの完成形だと見なされていたわけだ。しかし、デジタル化が進むにつれて、ヘレン・ニッセンバウム(Helen Nissenbaum )の「文脈的整合性(Contextual Integrity )」理論などが登場し、プライバシーは「社会的な関係性を適切に管理するための情報の流れ」として再定義され、社会的な価値が強調されるのが主流になった。
今回のベンサムの主張は、こうした「社会的価値」ばかりを重視する現代の傾向に対し、プライバシーには他者との関係性とは無関係な、純粋に「自分自身の条件での自己理解と自己表現(self-understanding and self-expressions on one's own terms)」に寄与する価値があるというものだ。ベッカーはこの試みを革新的だと評価しつつも、いくつかの鋭い疑問を投げかけている。
特にベッカーが指摘しているのは、「個人の領域」と「社会的な領域」を明確に分けることの難しさだ。例えばベンサムは、他人の評価を気にせず化粧をする女性の例を挙げているけれど、ベッカーは「公共の場で化粧をすることは、必然的に外見、つまり他者の視線を前提としている」と反論している。無関心であることとプライバシーは別物であり、自己ケアや自己表現といった行為も、結局は「世界との関係性」の中で自分をどう理解するかという、社会的な次元から切り離せないのではないかという指摘だ。
さらにベッカーは、ベンサムの議論に「人間学的(anthropological [https://en.wikipedia.org/wiki/Philosophical_anthropology])」な深掘りが欠けているとも批判している。プライバシーが個人の自己形成に役立つというなら、そこで想定されている「自己」や「アイデンティティ」とは一体何なのかという点だ。例えば、断片的な社会関係の対極にある「完全な自己(wholeness)」を求めているのか、あるいはストア派やフーコー(Michel Foucault [https://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Foucault])が説いたような「自己への配慮(self-care)」の伝統に連なるものなのか、といった哲学的背景が明確にされていないことを惜しんでいる。
結論としてベッカーは、ベンサムがプライバシーの「社会的価値を超えた何か」があることを説得力を持って示した点は認めつつも、その「何か」の正体や、なぜそれが人間にとって重要なのかという価値の根源については、まだ十分に解明されていないと述べている。この議論を単なる個人の主観的な経験談に留めず、デジタル時代の政策指針にまで高めるためには、より強固な人間学的な基礎づけが必要だと締めくくっている。
ちなみに、僕は人間関係を想定しないプライバシーの概念は、整合的ではないと考えている。これは、誰からも見られていないところで人が何を大切だと感じるかという話だけではなく、他者がそもそもいないか、あるいは他者が知り得ないような状況においても成立しない限り、そのようなことがらをプライバシーとして認めることはできないからだ。だが、それを本人の他は誰も知り得ないとすれば、そもそも何をしようと他人に知られることがないのであるから、それはわざわざ隠すようなことでもなくなるはずである。風呂に隠しカメラがないという確信があろうとなかろうと、たいていの人は自分の家の風呂で股にタオルを当てたりしないだろう。そして、それは同時に「誰からも見られていない」という信念を持っている限りにおいて、既に他人との関係を前提しているのである。だいたい、最初のベンサムの事例はおかしい。自分のためだけに化粧する人という事例だが、化粧したまま外出するなら他人に見られるわけであって、そんなものがプライバシーであるはずがない。事例を出すなら、たとえば女装癖のある変態おじさんとかが自分の部屋で化粧して自撮りした写真をパソコンへ溜め込んでるような事例だろう。確かに、化粧する動機とか理由という内面を秘匿したいというならプライバシーとして理解できるが、既に他人の眼に触れている化粧した姿をプライバシーだと言われても困惑する他にない。