Scribble at 2026-02-19 12:19:41 Last modified: unmodified

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The term ‘commitment’ plays a central role in the philosophy of language, the philosophy of social sciences, philosophy of action, and social ontology. Despite its centrality, the meaning of this term is seldom made explicit. It is not always clear what different authors mean when they use the term. This lack of clarity is especially apparent when using phrases like ‘shared commitments’ or ‘mutual commitment’. I argue that the term ‘commitment’ is used in at least two ways, which I call “private commitments” and “public commitments”. These senses can be distinguished by their different types of normative product. I then explicate different notions of the term ‘shared commitment’ derived from the two main notions. Finally, I apply these distinctions to try to make sense of paradigmatic uses of the term in the literature.

Two Concepts of Commitment

「コミットメント」という言葉は、もちろん哲学だけではなく、多くの場面や分野で使う。僕らも、いまちょど今期の目標を経営会議で立てていて、「今期の目標に対するコミットメント」なんてことを言ったりする。それはつまり、今年1年間に何億円の売上と何千万円の営業利益を積み上げますといった約束のことであり、しかもそれは希望とか期待とか努力目標なんかではなく・・・本来は達成しなければ部門長の減俸が当然の会社もあるはずだ。やると言ったことができてないなら、それは企業内の役職者としてだけでなく、社会人として嘘つきだからである。ただまぁ、幸か不幸かそこまで厳しい企業というのは多くない。少なくとも営業利益を残せれば、あとはファイナンスでどうにかなるという仕組みがあるからだ。ということで、もちろん日本だけに限らず、この「コミットメント」という言葉は形骸化しているビジネス用語の一つと言える。厳格な予実管理を自らに課して、結果次第で辞表を出すなんていうテレビ・ドラマみたいな態度をとるサラリーマンなんていないだろう。『プロジェクトX』の登場人物ですら、実際には大企業のぬくぬくした環境で徹夜したくらいで商品を開発できたラッキーな連中にすぎない。

さて、上に紹介する論文を書いた著者のグイド・レール(Guido Löhr)は、この「コミットメント」という概念を整理するために「私的コミットメント(private commitments)」と「公的コミットメント(public commitments)」という2つの核心的な概念を提唱し、それらがどのような「規範的な産物(normative product)」を生み出すかによって区別できると主張している。

まず「私的コミットメント」について、これは主に心理学的な状態、つまり何かをしようと決心したり意図したりすることを指している。この場合の規範的な産物は「合理的制約(rational constraint)」であり、例えば「ジムに行く」と心に決めたのに正当な理由なく行かないことは、自己の合理性や一貫性における誤りと見なされる。しかし、これはあくまで自分自身の内面の問題であって、他人がそれに対して責任を追及したり、行動を要求したりする権利を持つわけではないという点が重要だ。古くから言われてきた、カントの「不完全義務」のようなものである。

一方で「公的コミットメント」は、表明(assertion)や約束(promise)といった具体的な行為によって生じるもので、約束の相手などに対する「対人的な義務(interpersonal obligation)」を産物として生み出す。この場合、相手はあなたに対してコミットメントを果たすよう要求する「権利(entitlement)」を持つことになり、もし果たされなければ、あなたは単に合理性を欠くだけでなく、相手に対して「不当なこと(wronged)」をしたことになってしまう。

さらにレールは、言語学的な側面からも鋭い指摘をしている。彼は「〜することへのコミットメント(commitment to phi:動詞句)」と「〜という対象へのコミットメント(commitment to phi-ing / noun:名詞句や動名詞)」を区別している。例えば「透明性(transparency)にコミットする」といった抽象的な名詞形での使用は、単なる「献身(dedication)」の表明に過ぎず、具体的な行動指針が示されない限り、それは義務を伴わない「空虚な約束」になりがちだと批判している。大学の公式声明などでよく見られるこの種の表現は、実質的な公的義務を回避するためのレトリックとして機能してしまうリスクがあるというわけだ。お恥ずかしながら、弊社でも「売上へのコミットメント」などという空虚なスローガンが飛び交うこともある。じゃあ、売上を達成できなきゃ腹を切るのか? そうならないために、一ヶ月、いや一週間の単位で部門長は何を考えて決断して動くのか・・・こういうことが「コミットメント」という高らかな宣言をするだけで消し飛んでしまい、最後には個人的な人事考課の成績に矮小化されてしまう。困ったことだよ。

それで、論文の後半では、この分類法を用いてマーガレット・ギルバート(Margaret Gilbert)やマイケル・トマセロ(Michael Tomasello)といった著名な学者の議論を分析している。例えばギルバートの「共同コミットメント(joint commitment)」という難解な概念については、私的な意図の性質を持ちながら、なぜか対人的な義務をも生成するという、私的・公的の両方の性質を跨ぐような構造として理解できるのではないかと整理している。また、トマセロがギルバートの用語を使いつつも、実際には「行為によって開始される公的な義務」としてそれを捉えており、両者の間には微妙な、しかし重要な意味のズレがあることもこのタクソノミー(分類法)によって浮き彫りにされている。

結局のところ、レールが言いたいのは、私たちが「コミットしている」と言うとき、それが単なる自分の固い決心(私的)なのか、それとも他者に対して責任を負う約束(公的)なのかを明確に区別すべきだということだね 。この整理によって、学術的な議論だけでなく、日常のコミュニケーションや組織の公式声明においても、誰が何に対してどのような責任を負うのかがよりクリアになるはずだ・・・というのだけど、現実のビジネスにおいては、そんなもん宣言なんてされても意味ねーんだよ。実際にそれだけの売上なり営業利益を出すかどうかが問題なんであって、意欲とか意気込みなんて屁でもないね。

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