Scribble at 2021-01-07 11:41:22 Last modified: unmodified

2018年の10月初旬に亡くなった実母は、大正区の小林斎場という火葬場で焼いてもらった。慌ただしく過ごしていたので細かいことを忘れてしまっているのだが、大阪市内に住んでいながらも大正区へ訪れるのは初めてのことだったため、実家と往復した間に幾つか覚えていることはある。

まず遺体を専門の業者さんに運んでもらった。葬儀屋さんが懇意にしている輸送業者とのことで、こういうことは特に知ってる事業者がいない限りは黙って従って任せておくものだろう。暫く時間をかけて、ストレッチャーに棺を載せて車内に積み込み、他に1台だけ呼んでもらったタクシーと共に実家を後にした。確か昼過ぎだったと思う。斎場の名前は聞いていたのだが、実際に車で行くと知らないルートを通るので、それなりに興味を持って景色を眺めていた。北津守あたりまで来ると、思ったとおり茫漠とした印象がある。周りは工場や商店が並んでいるけれど5階建てを超えるビルが殆どない、いかにも発展から取り残された地方都市然とした風景だ。

ただ、斎場まで来て焼いてもらっている間に、近くで食事しようという話になり、少し南にあるサボイでおにぎりやサンドウィッチなどを買ってから、父や叔母たちと全員で近くの小林公園という場所に着くと、10月というのにやたらと暑い日で、そそくさと食事してから暫く公園で話をしても全くなんともないのは幸いだった。そして公園から斎場へ戻るときに、ふと足元の草を引き抜くと四葉のクローバーだった。これには叔母がやたらと大袈裟に驚いていたのを覚えている。よく幸運だと言われて、四葉のクローバーなんてしょっちゅう見つけるし、その時のように無造作に引き抜いた中に四葉のクローバーが混じっていることもある。本人にしてみれば特に不思議でもなんでもないし、幸運だとも思っていない(子供の頃に宝くじを買わされたことすらあったが、別に高額当選した経験もない。そういう意味での運があったら、いまどき年末年始に馬鹿げた仕様の受託案件に引きずり回されるウェブ開発の仕事なんてやるものか。コンピュータの運用やシステム開発なんて、余技か暇潰しでしかない)。

あの辺りは、少し近くの津守という土地なら記憶がある。別に嫌いとか悲惨で気の毒だとか、そういう記憶や感想を持っているわけではない。酒井さんの『通天閣』にも描かれているように、近代からこのかた色々な製造業の工場が軒を連ねていて、或る意味では大阪がかつて大きく発展していた原動力の、もう一つの中心街とも言える地域だ。船場や千日前のような地域も、確かに派手な事績の数々で多くの人々の印象に残っているとは思うが、港側の地域もきちんとした調査や研究あるいは解説の文書が多く書かれることを望んでいる。実際、いま書き進めている「船場センタービルの歴史」というページにしても、船場センタービルの上を走る中央大通の敷設計画は、焦土と化した戦後に大阪の海の玄関である築港と中心街や郊外とを結ぶことを目的としていたので、少しは大正区や港区の方面に関連する事績を調べて掲載しようと思っている。

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