Scribble at 2024-10-25 17:12:00 Last modified: 2024-10-25 17:21:15

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Quit Social Media

2016年というから8年前の記事だが、いまでも有効だと思うのでご紹介しておく。ソーシャル・メディアが有害か有益かどうかという調査には、いまでも正否のつかない結果が出ていて、もちろんこんな影響関係は条件を固定することが非常に難しく、アメリカの社会学者によくあるセンセーショナルで短絡的な結果に導かれやすい。しかし、上の記事でカル・ニューポートが議論しているのは、自分自身にとっての時間とか労力の配分という、明確で単純で分かりやすい指標で考えた場合の結論だ。X のタイムラインを眺めるのに2時間を費やしたら、もちろん学術研究のような(X のタイムラインを眺めるよりも価値があって重要で崇高であるかのように語られやすい)比較対象を持ち出さなくても、たとえばゲームする時間がなくなるかもしれないし、漫画を読む時間がなくなるかもしれないし、寝る時間がなくなったりするかもしれないし、他にやりたいことがあってもできなくなる。ソーシャル・メディアの是非を語るときに、多くの大人や学者は、あまりにも比較する対象を「ソーシャル・メディアよりも有意義なこと」だと思い込んでいるものに設定してしまうので、特にソーシャル・メディアに依存する人々の単純な反感を買いやすいわけである。ただのお説教になってしまうのだ。

でも、カルが議論しているのは、そういう大人が子供を叱りつけたり諭すようなお節介ではなく、真面目で切実な話である。僕らは、ノベール賞を受けた天才科学者だろうと建設労働者だろうと北朝鮮のスパイだろうとネトウヨのガキだろうと内閣総理大臣だろうと IT ベンチャーの社長だろうと僻地のケア・マネージャーだろうと、1日は24時間しかない。時間が実在するかどうかとか、24時間という長さや測り方の単位に合理性があるのかどうかは、もちろん僕は科学哲学者として幾つかの考えを知っているし、僕自身にも漠然とした意見はあるが、何にしても有限であるという一つの強力な事実を否定することは論理的に不可能であろうし、主観的にはともかく客観的な長さが人によって異なるという事実を否定することもできないはずである。したがって、その24時間を(良い悪いの判断はともかく)或ることに使えば、そのときを他のことに使うことは絶対にできないわけである。明日は使えるかもしれないし、昨日なら使えたかもしれないが、当日の時間とは絶対に置き換えられない。これは誰でも同意できるだろう。カルが議論している基本的なアイデアは、ここから引き出されている。

ソーシャル・メディアに関する否定的な議論について、しばしば見受けられる反論にこういうものがある。「ぼくはソーシャル・メディアのお陰で、自閉症でも友達ができました」だの、「わたしは女の子ですが異常な性癖があるので、ソーシャル・メディアで一緒に話せるともだちが見つかって良かった」だの、あるいは「わたしたちはゲームのチャットで知り合って結婚しました」だの。こういうセンチメンタルな反論で、ソーシャル・メディアやゲームこそがマイノリティをサポートする強力な社会改善の道具なのだと宣言する人はいる。でも、こういう気の毒な人々には申し訳ないが、僕はそれは錯覚だと思う。

確かに、結果としてそういう幸運な結果に巡り合った人はいるだろう。それはそれで個々の事例について否定するつもりはない。でも、だからソーシャル・メディアが「不可欠」で、「だれにとっても有用」だと言えるかと言えば、それは単なる結果論でしかない。ソーシャル・メディアが結果として男女を結びつけて「ゲームで出会って結婚しました」といった事例を生み出すことはありえる。でも、それはソーシャル・メディアがなければ死ぬまで結婚できなかったはずであり、そして結婚できないことは当人たちにとって死ぬまで不幸として理解されるという仮定が正しいならの話だ。しかし、こういう仮定が正しいと客観的に証明できる社会科学者はどこにもいないし、主観的にも当人たちが確信をもってイエスと言える根拠などないだろう。つまり、彼らは全く不明な確率と比較してソーシャル・メディアを評価しているのであって、現にソーシャル・メディアがあって結婚したとかともだちができたという事実を基準にして、他の可能性を過小評価しているだけなのではないか。他の可能性については、それまで失敗したからソーシャル・メディアが良かったのだとしても、そのまま続けていって失敗し続けたとも限らない。そういう未知の可能性と現実に起きたこととを比較するのは、たいてい錯覚である。ましてや他人にも同じ条件が当てはまるとか、同じ可能性があるとしてソーシャル・メディアを救済策や万能扱いするのは、錯覚というよりも傲慢と言ったほうがいい。

実際、友達ができたり結婚相手が見つかるまでにどれほどの時間や労力を費やしたのかは個々のケースごとに異なると思うが、当たり前の話としてゲームやソーシャル・メディアに時間を使っていれば、外出して出会っていた筈の人々と出会うチャンスもゼロになる。そういう代償を払ってソーシャル・メディアやゲームなどに時間を使っていたということを忘れてはいけない。ソーシャル・メディアは、我々の活動や人生を補足しているわけではなく、だいたいにおいて我々の時間や労力、そして X のプレミアムのように有料サービスならお金もだが、我々の何かを注ぎ込んでいる対象でもあるのだ。僕が10年くらいまえに、「Twitter でツイートすることに忙しくて勉強してないんじゃないか」と揶揄していたアメリカの哲学教員なんかは、彼の論文を PhilPapers という専門の検索サイトで調べても、実際に殆ど出ていなかった。僕の観察だけが理由でしかないけれど、はっきり言ってソーシャル・メディアで毎日のようにせっせと何事かを投稿している学術研究者は、だいたいにおいて業績として評価されるどころか論文そのものを書いていない無能である。もちろん、有能で高い業績を出している Terence Tao のようにソーシャル・メディアで投稿している人もいるが、彼にしても毎日のように投稿しているわけではないし、アメリカの酷い学者は自分の演習の実況中継や感想のようなものまで Twitter に垂れ流していたこともある。そして、そういう「ソーシャル」で、ソーシャル・メディアでの露出が多い有名人に限って、実はそんなことをやっているがゆえに業績を出せないという無能なのであるということが、ソーシャル・メディアの投稿だけでは分からないのだ。

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