Scribble at 2024-07-23 13:35:10 Last modified: 2024-07-23 13:40:58

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最高裁判決では、優生保護法そのものを憲法違反としたが、これには疑問がある。まず優生保護法は1996年に母体保護法と名前を変え、障害者の不妊手術の規定を削除したが、妊娠中絶は現在も行なわれている。「経済的理由」で中絶できるので、実質的に自由である。

優生保護法が「団塊の世代」を生んだ

こういう、時間の順序とか人の思考の向上や改善という、社内や人の進展なり発展を無視して議論するひとたちを取り上げるのは、ぼくら哲学者にとって常に面倒臭い仕事になる。本来、ぼくら哲学者というのは単純な発展とか進展という概念を疑ってかかるのが職責みたいなものだが、こうして自分たちの言いたいことに合わせて都合よくものごとを判断する「時点」をずらしてみたり、あるいは口先で「自由」を語っていながら他人の自由を後から制限して見せるリバタリアンというのは、まったく面倒臭い連中だ。はっきり言って、リバタリアンというのはスペクトラムの「あっちがわ」にいる自覚があればこそ、少しはコメントや記事などとして公に発言するのを自嘲してはどうなのか。

たとえば上の文章でも、話題を改定された母体保護法にズラしてから「経済的理由で中絶『できる』から自由だ」などと愚かなことを書く。ここで問題は、話が優生保護法ではなく改定された別の法律の話に置き換わり、そしてなおかつ旧法では行政や親が本人を騙して去勢したというのに、別の法律を語って「自由」だなどと言う。こういう下らない詭弁に、人類史をステージにしてものを考えている保守の哲学者がいちいち付き合うこと自体が、われわれの才能の浪費なのである。

そして、この記事に出てくる後の話は、要するに「当時の価値観では障害者の去勢や堕胎は正しかった」という免罪の言い訳ばかりだ。しかし、そういう「当時の価値観」を後の時代である現在において過ちだったと悔いたり反省することは、それ自体がわれわれ人類の叡智や文化の進展なり発展を示す証拠であり、喜びこそすれ否定するようなことではない。過去におこした間違いに一定期間の「時効」というものがある事実ですら、ただの行政的な事情による決まり事にすぎないのであって、何年ていどの期間がすぎたからといって悪事がなかったことなるわけでもないし、それが当然なのでもない。

ともかく、こういうリバタリアンどもの性根にあるクズ精神というのは、われわれ真の保守の人間から言わせてもらえば、障害児や高齢者を「社会のお荷物」と見做して、最初から死んでいればよかったとか、さっさと死ねばいいなどという都内のネトウヨのガキと同じことを「自由」の名のもとに思想であるかのように語るところにある。こういう、思考として根本的に卑しい連中が経済や社会思想や制度について、程度の低い「算数」や多読による暗記によって語るというのは、多くの人には学術的な何かを語ったり論じているように見えるのかもしれないが、そんなことはないのである(僕ら科学哲学者からみれば、ブラック=ショールズ方程式ですら、さほど複雑でもない確率偏微分方程式にすぎない)。

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