Scribble at 2005-07-02 14:33:45 Last modified: 2022-10-03 16:51:05

なぜ確率的因果性に関心をもったかという話は、もともと小学生の頃から考古学者を目指していたときに、ウェーバーとメイヤーの論争を読んで、「歴史の法則」とか「必然性」といった言葉の裏側にある概念に関心をもち、次第に哲学へと関心を移していったという経緯を話しました。なかでも、自然科学のアプローチに関心をもつようにもなった経緯は、考古学をやっていたときに、年代測定や環境考古学など、自然科学のアプローチを考古学にもっと活用しようという先生の元で学んでいたからではないでしょうか。それをもっと推し進めると、カント学派のヴィンデルバントがかつて呼び習わした、「法則定立的な学問」としての考古学や歴史学という理想にゆきつき、幼心に生意気ながらも「人の歴史ってどうなっていくんだろー」とか、「もし自分の生き方とか世の中で起きることが、運命というか必然的なことで変えようがなかったら、どうすればよいのだろう?」という、いささか恐れおののきながら抱いていた問いに、一つは自然科学、もう一つは哲学で自分なりに答えようとしたように思います。実際に、自分が「科学哲学」という領域でプレイできるのだと自覚したのは、それからかなり後の大学進学前のことでした。そして、因果性や必然性といったテーマに関心をもつと、それこそ古今東西のあらゆる哲学者たちが関わってくるし、当然ながら自然科学者やそれ以外の人文・自然・社会科学も関わってくるため、まじめに哲学として因果性をやろうとすれば、ヨーダと同じくらいの寿命まで生きなければフォースを我がものと・・・いや、因果性をすげー体系的にやったとは言えまいなどと、そんなに時間がかかる無能さをさておき、ぼんやりと思っていたのです。

さて、そういうわけで哲学への入り方は歴史からでありましたが、高校の頃に流行ったポストモダンなどの影響もあって、いっときはフーコーやアナール学派などにも寄り道をしましたが、なんだかんだして大学へ入学するまでには、どちらかと言うと唯物論ちっくな文脈から論理実証主義の洗礼を受けつつ、やがてそういった小文字の政治からは離れて専門分野としての科学哲学に邁進することとなりました。

因果性の研究をやろうと思った経緯はかくのごとくであったわけですが、大学時代(法学部)はいちおうの専攻であった法哲学ではハートなどを、法社会学ではエールリッヒやルーマンあるいは六本佳平さん、そして刑事法学では主に大塚刑法を読んでいて、その当時すでに司法修習生となっていた友人からは「やっぱりいまは前田やろ」と言われたりしながら(他にも団藤刑法とか平野刑法とかありましたね)、科学哲学や分析哲学の訳本とか一部の原書あるいは論文を読んでいた次第です。当然、修士課程へ進むつもりでしたが、進学先に決めていた関西大学でオーバードクターだった方にアドバイスしてもらったところ(上記の友人が関大の修士まで行っていたので、この OD の方へ仲介してもらったわけです)、なにかしら古典をやっておいた方がよいということだったので、やはり分析哲学で因果性に関心をもっていて、しかも古典となればヒュームしかいない。しかるに、法学部は卒論を書かなくても卒業できる大学が多いのですが、僕は半年くらいかけて関大の図書館の地下に忍び込み(笑、書名に "David Hume" とつくものは手当たり次第にコピーして持ち帰り、因果性に関する部分を拾い読みして、かたちだけは何とか卒論のようなものをまとめました。そのときは直に因果性を主題にはせず、「ヒュームの関係概念」というテーマで、ヒュームはいわゆる causal relata を観念だと考えていたのかどうかという点を取り上げました。

さて、関大の修士に進んで、現在は名誉教授となられた竹尾治一郎先生の元で、科学的説明の理論や科学的実在論などについて雑文をいろいろ書きながら、修士論文のテーマとして「確率的因果性」を選びました。その当時、既に僕は「因果関係に関する実在論(causal realism)」という論点について、反実在論というか、因果関係は認識論的カテゴリーに属する概念だという立場を支持していたため、次のように修士論文を締めくくりました。実は、修士は 3 年在籍していたため、これは一年かかって書き直した方の論文です。

「確率的因果性の定式化は、現実に起きる事象どうしの関係を分析するためにどのくらい有効なのだろうか。恐らくその評価が確率的因果性という概念の正当性を裏付けるだろうし、またその評価により確率的因果性という概念は不要だと帰結するかもしれない。或る定式化で概念を分析することは、その定式化が現実に起きる事象の分析にも有用な着想を与えるようになされねばならないからである。さもなければ、わたくしたちが分析しようとしている概念は分析されるべき現実的な内容を何ももっておらず、わたくしたちが経験している多くの事実を分析するための指針すら与えないであろう。もちろん、或る分析が有効だという評価は少なからず文脈依存的である。原因とか結果と呼ばれる現実に起きたトークン事象はさまざまなタイプ(としての性質)に対応しており、「原因」と呼ばれる事象がどんな性質をもつがゆえに「結果」と呼ばれるトークン事象を起こしたのかと問うならば、その答えは確かにメンツィースが述べたとおり、わたくしたちがその場面で関心をもつ文脈に沿って求められるだろう。それゆえ、単に或る定式化が現実に起きた事象どうしの関係をうまく捉えていないというだけで確率的因果性の概念そのものも不要だと言い切ることはできない。

わたくしがこのように述べる理由は、或る事象どうしの結びつきを確率的因果性の事例として捉えようとすることこそが、そもそも上記に述べた文脈の一つだと考えるからである。哲学者たちが確率的因果性を定式化しようとする状況で念頭に置くであろう観念は、統計学者たちが因子分析のよりよい理論を立てようとする状況で念頭に置くであろう観念と何も変わらない。従って、わたくしたちが外界の事象を或る何事かとして探求しようとする概念的な枠組みが因果関係であり、その点では決定論的因果性も確率的因果性と同等の身分をもつのである。だが個々の事例において、わたくしたちはそれらを確率的因果性の事例だと考えたいにもかかわらず、わたくしたちが確率的因果性について抱く観念はそれら現実の事例とうまく適合しない場合がある。サーモンやメンツィースのような因果性に関する実在論者たちは、それゆえ確率的関係による分析だけでは捉えきれない実在の結びつきがあるのだと考えたのであった。またイールスは、それゆえトークン因果関係とタイプ因果性の定式化は別個に立てられねばならないと考えたのである。しかし、わたくしが思うには、これら二つの方針は誤っている。そこで、これまで検討した定式化を振り返ってみることにしよう。[以下、略]

確率的な因果関係が実在すると主張するために、結果に対する因果的要因のクラス、つまり参照クラスやそれのパーティションを客観的に固定したり列挙できる筈だと考える哲学者に対しては、まずネルソン・グッドマンが反事実的条件法の分析について述べた論点と同じく、或る因果的要因がしかるべき条件のもとで起きたならば、結果の確率を上げるであろうと言われるとき、その条件を具体的に特定しようとすれば、「或る他の条件のもとでその条件が起きたならば、それは或る因果的要因が結果の確率を上げるために固定されるべき条件となる」という別の条件法について考慮しなくてはならなくなり、或る要因が真正の原因であるための条件として固定される他の因果的要因が、偽の要因ではないか、少なくとも後続事象の生起にとって統計的関連性をもつと想定するためには、個々の要因について再び同様の確率的関係を主張しなければならず、これはどんどん後退して行かざるをえなくなりましょう。

また、確率的因果性に関する実在論的解釈を受け入れるということは、原因が結果を惹き起こす確率について、もし原因が起きたならば結果が一定の確率で起きる筈だと考えることでもある。しかしこれでは、A がそうした傾向を或る確率としてもつ筈だという想定が説明されただけで、なぜ事象 A はその値でもって事象 B が起きるような傾向をもつのかということが全く説明されずに残る。

要するに、確率的因果性をなにかのかたちで定式化するときに無限後退や説明できない点が残り、それをどこかでやめたり、或るところにそれ以上は分析できない関連性や観念があると言ってしまうのはまずいんじゃないかと思ったわけですね。特に後半の、どうして事象 A と事象 B の確率的な依存関係がこれこれしかじかの特定の値をもつのかという説明ができなくては、ものごとをそのまま確率で記述しているだけに終わってしまうように感じたわけです。ということで、博士課程では「確率はどのような数学的存在なのか?」というところで、数理哲学のプラトニズム論争を少しばかりたどってみようかなぁぁぁと思いつつ 3 年経ってしまったのでした。これから書く論文で挽回するのだ。

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