Scribble at 2005-06-19 17:13:49 Last modified: 2022-10-03 16:47:29

速読をするには文字を純粋に「かたち」として「処理」しなくてはならないようですが、どうも「黙読はこれ心の音読なり」という方針で読書をしているらしく、音読とほぼ同じようなスピードしか出ない。でも、これが自分には合っているような気もしています。特にこういう本は雑誌論文を読むときとは違って、「処理」するようなものではないという気がしているから、せいぜい 300 ページくらいの本を何週間もかかって読むのは大変ですが、嫌ではありません。寧ろ、長篇の小説を読む人がしばしば口にするように、終章を読み出すと終わってしまうのが惜しいという感想もあるので、やはりどこか現実逃避のような動機もあって読んでいるのでしょうね。

この、「西南シルクロードは密林に消える」という題名を読んで、最初はルートが途中でつかめなくなるのだろうかと思っていましたが、最後に著者見解を知って、このようなタイトルがついた理由に合点がゆきました。つまり西南シルクロードとは、高野さんによれば、わたしたちが地図の上で線を引っ張ってイメージするような「ルート」ではなく、中国南西部からミャンマー北部を抜けてインドへ至るまでの「地域」で、東からきたものを西へ売り渡したり贈与したり、あるいは西からきたものを今度は東へ売り渡したり贈与したり奪われたりして、結果的に物資が移動したことを指すのではないかというわけです。実際、西南シルクロードには、新彊ウイグル自治区を横断するオアシス路のシルクロードにいたような、交易商人とかキャラバン隊にあたる人々は登場しないみたいです。

ちなみに、この「西南シルクロード(西南絲綢之路)」という言葉の起こりについては、1986年に中国の成都にある王墓からインド洋産の(と推定される)宝貝でつくられた貨幣が見つかったことから使われるようになったようです。おおまかには、成都から大理 - 保山まで来てからインドへ続くルートとミャンマーのラングーン(現・ヤンゴン)へ至るルートに別れると言います。また他にも、ハノイや楚雄へと続くルートも推定されているらしい。そして、実はこちらのルートの方がステップ路やオアシス路よりも古いという見解があります。

それと前にちらっと感想を書いたように、西南シルクロードの検分というよりは、そのルートを通ってみた紀行という趣が強く、特に現地の北部ミャンマーからインドの北東部にいたる場所で展開する反政府ゲリラの話がたくさん出てきます。でもあたりまえと言えばあたりまえですね。別に学術調査に行ったわけでもないし、その必要性もなければ実効性もないでしょう。遺跡や古文書といったものを発見できるわけもないとあれば、現地に長期滞在して文化人類学的な手法の調査を続けるしかつかみどころがない。とあれば、実際にその土地を歩いてみて感触をつかむことからでも始めないといけないのでしょう。じっくり腰を据えて調査すれば、ルートのようなものは見つかるのかもしれませんが。ともかく、北のオアシス路みたいに「そこしか行くところがない」場所とは違って、ジャングルだから「どこを行けばいいのか分からない」(笑、という別の困難が読んでいてよく分かりました。

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