Scribble at 2024-05-30 14:21:18 Last modified: 2024-05-30 15:31:07
Google Maps のストリート・ビューというのは、あいかわらず AR だか MR だか知らないが、醜悪なレイブルを写真に貼り付けるという仕様を変えようとしない。これは残念だが、このレベルで写真を利用できるサービスはこれしかないのだから、受忍する他にないのだ。
さて、これ(「上記」という言い方は論文のようで堅苦しいからやめる。ただ、「これ」ではユーザビリティが低下するので、お勧めはしない)は JR 寺田町駅の南口から南を向いた風景だ。近くにある大阪教育大学附属中学校・高等学校の天王寺校舎へ通っていた頃は、放課後になると頻繁に足を運んだ場所である。いまでは当時の様子がまるで感じられないが、ここはいちおう商店街であって、右手にはタコ焼きやお好み焼きの安い店があった。更に南へ進むと、再び右手には石塚書店さんという古本屋があった。そこで、マリオ・ブンゲの『因果性』(岩波書店)などを手に入れた覚えがある。そして、更に南へ行くと左手の角に高齢のお婆さんが営むお好み焼き屋があり、そこで何時間も友人らと話し込んだりした。そこから先には当時も殆ど店がなかったし、奥へ向かって行く必要がある(つまり家がある)者はいなかったので、日が暮れてゆくと再び寺田町駅まで戻って大阪環状線に乗り、或る者は外回りの列車で天王寺方面へ、或る者は内回りの列車で京橋方面へと散り散りに帰宅する。高校2年くらいから、僕は自転車で通学していたため、僕だけは北の方角へ向かって自転車に乗って友人らと別れた。
しかし、それから2年ほどが経過して、高校を出て東京で暫く働いてから大阪へ戻ってきた僕は、この商店街を南端で交差する国道25号線まで歩いて行ったところにある、ワンルーム・マンションに住んでいた。なので、またこの商店街を毎日のように通り抜けることになったわけである。そのマンションは、1階に眼鏡屋が入っていて、僕は2階の西端の部屋に住んでいた。その部屋はベランダに出ると、すぐ脇を通る JR 大和路線(当時は関西本線)の列車が同じ高さを通り、朝や晩のラッシュ・アワーには信号待ちなどでマンションの付近に停車したから、朝夕に部屋のカーテンを開けると列車の乗客と目が合うという経験を繰り返していた。そんなこんなで3年くらいは住んでいたと思うのだが、近くの生野区に住んでいた祖母が体調を悪くして両親が介護することとなり、僕も祖母の家へ移り住んだ。それから祖母は病院へ移り、ちょうど阪神淡路の震災があった日の数日後に亡くなっている。それからは僕の一家が祖母の住んでいた家(父の実家である)へ住んだわけであった。父親は今年になって、亡くなった当時の祖母の年齢に達していて、いまでも独りで実家に暮らしている。そして、ここに何度か書いたと思うが、僕は実母が亡くなって父が独りになってからは、連れ合いと隔週で実家に行って、父と一緒に夕飯を囲むという生活を6年ほど続けている。