Scribble at 2023-02-21 16:50:04 Last modified: 2023-02-22 21:59:37

AWK(オーク)というテキスト処理のツールがあるのは、多くの技術者がご存じのことだろう。そして、原則としてスタンダードな出版物として知られている限り、これまでに3冊しか関連する本が出ていないということも、それなりに知られている筈だ。つまり、以下のとおりである。

・The AWK Programming Language (1988),

・sed & awk (2nd edn., 1997),

・Effective awk Programming (4th edn., 2015).

このほか、AWK を学ぶ人々は、当然のこととして gawk(多くのディストリビューションで動く awk は、実質的には gawk である)の公式マニュアルを紐解く。日本では、これらに加えて翻訳もあるし、日本だけで発行されている書物もある。でも、それらを合計してもせいぜい10冊くらいだ。

ドキュメンテーションが大切だと言われることは多々あるが、C や C++ や Java や PHP や Python について出版されている夥しい数の(そしてその大多数はクズとしか言いようがない)入門書や解説書に比べて、これだけ貧弱なリソースしかないにもかかわらず、大半の UNIX, GNU/Linux では我関せずとメンテナンスされ続けているし、使う人は使い続けている。でも、それだけではドキュメンテーションの有効性なり knowledge management の要不要を論じるには不十分というものだろう。なぜなら、awk がメンテナンスされ使われていると言っても、そのコミュニティが awk しか選択肢がなかった時代から携わっているロートルの集団かもしれないからだ。何と言っても、AWK を世に送り出した当事者が現在も全員生きているのである。彼らの成果に学び利用してきた、せいぜい5歳か10歳くらい下の世代にあたる人々が世界中に何千人といれば、かれらの多くはコンピュータや通信関連の会社を経営していたり、多くの企業や公的機関で重鎮となっているかもしれず、いまだに大きな範囲で影響力を持っていてもおかしくない。そうした人たちが(用途はともかく)使っていたり話題にしていれば、たとえ20代以下のプログラマの 99% が使わないどころか名前すら知らなくても、2023年に新しく立ち上げたインスタンスにすら当たり前のように入っているわけである。

もちろん、僕はここで啓蒙の観念をあざ笑う意図はないし、ドキュメンテーションや出版活動を無駄だと言うつもりもないし、AWK のようなツールを遺物として博物館送りにすべきだと言っているわけでもない。むろん、本物の埋蔵文化財と同じく、保存したり共有する努力をしなくなれば、人なんて同じ間違いを幾らでも起こすというのが、歴史の教える教訓であろう。でも、場当たり的に「Aをやると駄目だった」、「Bをやると駄目だった」という事実をひたすら蓄積して記憶するだけでは、歴史に学ぶなどと言っても人の能力を簡単に超えるタスクになってしまう。それは、たとえ AI であろうと記憶容量には限りがあるのだから同じことだ。したがって、それらから学ぶべき共通の教訓なり注意するべきポイントについて的確な理解が求められる。簡単に言えば、「哲学」というのはこれを提案したり想像する学問でもある。そして、このような作業に特別な才能が必要であるという根拠はなく、いわゆる哲学プロパーだけが為しえることでもないからこそ、数学者が数学について哲学的な考察をしたり、社会学者が社会や人間について哲学的な考察をすることに何の支障も資格も障害もないわけである。

僕らのような、良い言い方はないのだが「クワイン左派」と言ってもいい科学哲学者は、科学と哲学の連続性というだけではなく、哲学の独特の領域とかレベルなど存在しないと考える。つまり、哲学の専門家なんていないと主張する。哲学的な思索に何か特別で独特な才能とか資格が必要であるかのように思い込むのは、単に近代教育制度の学位が生み出した錯覚にすぎない。したがって科学哲学者とか哲学プロパーが書いている「哲学論文」には、残念ながらあまり興味がない。寧ろ、物理学者が(哲学を DIS っていようと)哲学的な発想を使ってものを考えている現場に居合わせる方がエキサイティングだと思っている。もちろん、そこでは哲学をしているという自覚がないかもしれないし、わざわざ自分は哲学的な考察をしているなどという自意識なんてなくてもいいし、寧ろそんなものはない方がいいのだ。得てして、哲学科を卒業して Oxford U.P. とかから出てる哲学の洋書を何十年か読んでるだけで、自分が哲学しているかのように思い込んでるような愚物の方が、単なる面倒臭いだけのやつでしかなく、そういうのは大学でものを教えていようと哲学者でもなければ哲学研究者でもない。どれほど英語ペラペラで圏論やモデル理論を自在に語れようと、しょせんは哲学書の読書家であり、YouTube で古典の雑な解説をやってるガキと何も変わらないわけである。

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