Scribble at 2021-07-30 11:49:40 Last modified: 2021-07-30 11:50:07

国を単位にした雑な理解が、いまの時期になって通用しなくなったと考えるのは全くの不見識というものである。30年前と今とでは、具体的で詳細な「データ」をオンラインで手軽に僕らでも知りうるようになったという事情はあるにしても、そういうデータを僕らが個々に手にできるかどうかとは関係なく、調べようと思えば他人が調べた資料なり著作物を読んで、国を単位に物事を判断することが(とりわけ国全体を規制する制度と強い関係がなければ、なおさら)不適切だと知り得た筈である。よって、このような偏見の原因は、国単位で指摘できる事実が本当にあるからでもなければ、情報不足だからでもない。単に我々が面倒臭がってものを調べないからだ。

たとえば、工業製品の品質についてアメリカの製品は雑だとか品質が低いとか言う人がいて、日本車に比べて燃費が悪くて壊れやすいアメリカ車だとか、アメリカには時計の製造会社が TIMEX しかない(ファッションのサイトでは他にも色々と紹介されるが、それらは外資系かあるいは実質的な拠点がアメリカにない時計メーカーだ)などと言ったりするが、スマートフォンのゴリラガラスや光ファイバーの発明元である CORNING や、愛煙家に絶大な信頼を置かれている Zippo についてはどうか。逆に、最近の報道では日本の「ものづくり」企業の多くが何十年も前から検査の不正を大規模に続けてきており、実は日本製品の多くは現在の中国どころかミャンマーの工場で作っている製品にも劣るような〈カス〉だったという話がどんどん出てきている。

要するに、見たくないものから目を遠ざけて、見たいものだけを「ジャーナリスト」と称する連中から雛鳥のように与えてもらう。このような〈大衆〉の行動特性こそ、何千年も前から変わらない、雑に理解しても通用する事実なのだ。もちろん、その「大衆」が何であるかも雑だからこそ妥当するわけだが。

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