Scribble at 2021-01-02 23:28:53 Last modified: 2021-01-02 23:44:07

緊急事態宣言を東京都と周辺の3県に発出するかどうかという話になっている。是非についても議論があるし、緊急事態宣言を出すにしても補償が必要だという条件付きの賛成もある。もちろん、一定の補償が必要であることは疑いを入れないけれど、果たしてどこまでの補償が必要で、また国の財政として可能なのかは、常識的な議論が必要だろう。

まず緊急事態宣言によって活動に何らかのインパクトがあった私企業の全てに、予想された売上を補償する国家などない。日本が特殊で(或る意味では優秀な)社会主義国であることは何度か書いてきたが、いかに社会主義国であっても、国営でもなんでも無い私企業全ての売上を補償するなどありえない。昨年の4月に緊急事態宣言が出たときからの売上予想を全て国家の財政で保証するなどということは、およそするべきでもないし、できる財政などない。こういう未曾有の事態においてビジネスが成立しなくなるリスクというものは、地震や感染症に限らず常にある。たまたま酷い影響を被って事業が立ち行かなくなった人々にとっては気の毒なことに違いなく、生活できなくなるようなことは可能な限り防ぐのが望ましい。しかし、こういうことは人類の歴史に何度もあったし、感染症の流行を抑えた今後も起きる可能性は幾らでもあろう。そのたびに全ての事業者の売上を国家が補償していては、たぶん国家は永久に巨大な負債を増やし続けることになって、後の時代になればなるほど子孫は莫大な債務を抱えて重税に苦しむことになる。巨大な財政出動は、要するに将来の重税に苦しむであろう子孫より集めた原資からタイムマシンで金を借りているようなものだ。

こう考えると、僕らは過去や未来から大きな借りを作って生きていると言っていい。一方では、いま述べたように巨大な財政出動で未来の子孫から金を借り、他方では、先人たちの努力で達成された色々な成果にあぐらをかいて呑気に過ごすという、或る意味では経済的・文化的な借りを作っているのだ。そして、たいがいの凡人というものは、その無知無教養ゆえに見えも知りもしない先祖や子孫の努力を無視して、その場限りの喜怒哀楽だけを基準にして、やれ経済を回せだの人と人との交流が大切だの何のと不平不満をぶちまけては、感染症を広げてゆく。

そもそも、多くのリバタリアンや経済評論家は緊急事態宣言のせいで自殺者が「増えた」と言うが、果たしてそんなに影響は酷いのだろうか。一昨年の自殺者総数は全国で20,000人くらいだったのが、昨年は11月時点の速報で19,000人というペースだ(警視庁)。確かに一昨年よりも「多い」のは事実だが、そもそも感染症が流行しなくても20,000人近くは自殺者が出ていた可能性があるという状況であれば、20,000人を超える自殺者が出たとしても、新型コロナウイルス感染症の流行による企業の倒産による解雇や派遣社員の雇止めなどを理由とする自殺者だけで20,000人に達したわけでもなんでもないし、そもそもそういう特別な事情で「増えた」と言っても、統計全体からすれば差は数%だ。確かに一人でも自殺者が増えることは悲しいことだが、マスコミやリバタリアンの議論は典型的な「針小棒大」というものである。

経済ブン回しのリバタリアンだけでどこかの離島に集まって、「医療従事者のサポートを受けません」とか念書を提出してからものを言えって思う。どのみち、都内の高級住宅街で安楽椅子に座って適当な事をノート・パソコンでタイプしてる連中なんて、そういう気概もないヘタレや物書き風情に決まっている。

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