Scribble at 2023-07-28 19:50:47 Last modified: 2023-07-28 20:05:35

僕が見たところ、現代の多くの現象学者というのは肉体フェチの別称に思える。そして他方、現代の多くの分析哲学者というのは理屈フェチの別称であろう。いずれにしてもただの性癖を哲学と称して取り繕っているだけの変態である。そうして、どちらもスコラ的にただただ詳しいというだけの概念分析や論理分析に没入してゆき、自分たちがいったい何をやっているのかすら殆ど自覚も反省もないという、哲学ロボットのような論文を乱造している。

しかし、だからといって彼らと距離を置くポスト・モダンの生き残りとか、あるいはここ数年で流行しているオブジェクト指向の哲学なり、フェミニズム哲学なり(もちろんフェミニズム全般を揶揄したいわけではない)、なんとか実在論を始めとする(科学や数学を勉強したくない人のための安物の)科学哲学っぽい議論にしても、しょせんは歴史を正確に理解しないか無視したような思いつきと現代のパフォーマンスやエンターテインメントやテクノロジーといった成果を組み合わせた、フリーライダー的な読み物をせっせとビジネスマン向けの俗物メディアに掲載しているような連中の暇潰しでしかない。

こうした、しょせんはハーヴァードやソルボンヌで博士号をとったお坊ちゃんやお嬢ちゃんが乱読で思いついたデタラメなんて着目するには値しない。そして、こうした人々がたまに「発見」する市井の隠れた思想家みたいな人々(やれ波止場で働きながら「思想書」を書いたのどうのと囃し立てられるような人々のことだ)の著作も、結局は定年後に田舎でパン屋でも営むような元上場企業の部長みたいな連中が抱くコンプレックスを解消するための解毒剤のようなものであり、本当の知的な力の源泉などにはならないものである。

これから、どういうわけかはともかくとして、哲学を学ぼうとか学びたいと思っている人がいるなら、中学生だろうと、老人ホームに入居していようと、刑務所に入っていようと、証券取引所での激しい仕事を終えた後であろうと、あるいはミナミのポン引きとして仕事を終えた後にであろうと、ともかく学びたいと思っている人々には、やはりスタンダートな古典を読むことからお勧めしたい。しかも、「90分でわかる」だの「100語でわかる」だのという、はっきり言って哲学者(それから大学院の博士課程で学んだ者)としては何の価値もないと思えるクズみたいな解説本の類いは、後で読むなんていう理由があろうと手元に置かないようお勧めする。

そういう解説書を、そもそも手元に置いてはいけないと思う理由の第一は、圧倒的多数の人々がそういう解説本を先に読んで、そしてそれで終わってしまう可能性が非常に高いからだ。たとえば、僕が関西大学の修士課程に在籍していた頃に机を並べたこともある社会学者の岸政彦氏が NHK でピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を解説する番組に出演したことがある。この番組がきっかけで、大都市の大型書店には『ディスタンクシオン』を始めとしてブルデューの翻訳書が続々と積み上げられるようになったが、いま Google で「ディスタンクシオン」と検索しても、たったの3ページしか検索結果が出てこない(194,000件はヒットしているが、大半は単なる出版物のアフィリエイトやスパムだと判定されている)。他の検索エンジンで調べても、その大半は単なる本の宣伝や、読書感想文を装ったアフィリエイトであり、まともな批評や紹介を探す方が困難である。もちろん、彼のファンがブルデューの著作をせっせと買い集めたことで、少しは売り上げが上がったのかもしれないが(そういう見込みがなければ、上下巻で8,000円くらいはする「普及版」なんて、財務的に厳しい日本の出版社が出すわけない)、そういう人々の大半は、エロ本みたいに薄い NHK のガイドブックしか目を通していないであろう。

これは、僕らが仕事として携わっているシステム開発の分野でも同じことが言えるのだ。PHP や C 言語の「わかりやすい」入門者向けの本というものが、これまで数多く出版されてきている。しかし、そんなものを読んで優れたプログラマになった人というのは、恐らく殆どいない。そういう「わかりやすい」あるいは1冊読めば分かるといったことが売り文句になっている手軽な本を読むような人に限って、そういうものを読んで何者かになったような錯覚を起こしやすいからだ。よく、「達成感を味わうことがモチベーションの維持に繋がる」などといって、入門者には薄い教科書を与える方がいいなどと指南する教育者とか学者とかコンサルタントがいるのだが、そういう人々の多くは僕に言わせれば自分が経験したこともないことを人に勧める嘘つきだ。なぜなら、彼らのように他人へ勉強法や学び方を指南しているような地位にある人々は、絶対にそんな勉強の仕方をしなかったはずだからである。そして、海外の多くの国では小学生にすら(一冊ではなくとも単元の合計で)数百ページの教科書を与える事例があることを見ても、そのような薄い本で学ぶということには力強い教育学的な根拠などないと言える。

これは、僕がアマゾンで10年以上は前に PHP の lightweight framework が流行し始めた頃にカスタマー・レビューとして書いたことだが、最初から或るライブラリやフレームワークや開発言語に興味がある人は、薄い解説書なんて読まなくても興味を持続できる筈だし、そういう人たちが読み進められるように的確な構成でテキストを作成するのが出版社の責務である。薄い本で「やさしく」「かんたんに」書けば興味を持ってもらえるというのは、実は多くの分野と事例において逆効果なのであり、意欲も予備知識もない人に限って、そういうものを読んだだけで自分が何者かになったような錯覚を起こしやすく、意欲や予備知識がある人に限って、その程度の内容では消化不良になってしまい、無駄な本を読んだと不満を持つのだ。

したがって、哲学にどういうわけか興味や関心や意欲があるという方には、決して同人誌のエロ本みたいな100ページ足らずの本など、どれほど挿絵や漫画が「わかりやすそう」で「かんたんそう」で「やさしそう」に見えても、買わないよう強く勧める。デザイナーでもある僕の見識から言わせてもらえば、そういう漫画や図表やイラストの類は、哲学の概念や議論を未熟な著者とイラストレーターとが短絡化した偏見にすぎないと言いうる場合が多い。却って「わかりやすい」視覚的な表現であるがゆえに、そこにどういう短絡があるのかという脈絡や背景知識や更に広い意味合いが(初心者にはそもそもそういう知識がないのだから)理解できなくなる。そして、視覚的に「完結」してしまうがゆえに、そこから外れた意味合いとか、そういう「絵柄にそぐわない」脈絡とかを、そういうイラストや漫画に慣れてしまうと、簡単に例外的なものだとか不正な脈絡だとか異端の意味合いだと思い込みやすくなるのである。つまり、デザインが人の思考を歪めて固定してしまうのだ。そういう歪みが少ない状況で何かを読んで学ぶためは、結局のところ古典をそのまま読む他にないのである。

この場合、よく聞くのが(実際、僕が学生として在籍していた幾つかの大学でも後輩から聞かれたことがある)、「分からない言葉や用語をどう理解すればいいのか」という問いだ。いきなり古典を読んでも分からないのではないかというわけである。しかし、これはそもそもおかしな質問だろう。第一に、何が取り上げられたり考察されたり議論されているのか、そもそも全て分かるような話を読んで、いったい何の勉強になるというのだろう。みなさんは、いまさら九九が書かれた図で九九の暗算を勉強しようと思うだろうか。暇潰しに楽しむならともかく、いまさら皆さんは『桃太郎』とか『ワシントン』の絵本を人生の勉強だと言って読む必要があると感じるだろうか。そして第二に、そうした古典的な著作が世に初めて登場した当時も、多くの人々は「これはどういう話をしているのだろう」と悩みながら読んだ末に、何かを学んだり批評したわけである。つまり、分からないことへ立ち向かおうとすること自体が何かを学ぶということであり、最初から「現代哲学用語集」とか「1分で分かる」とか書かれた(実はデタラメな)カンニング・ペーパーを眺めながら本を読むなんて人はいなかったし、言葉や脈絡の難しさが古典を読む際の不当な障害であったなどと証明した人は一人もいない(確かに廣松渉氏の著作は不愉快な印象を覚えるが、あれはあれで性癖のようなものだ)。解説本やインチキな入門書を読んだ方が有効であるなどと、本当に立証したり、あるいは真面目に学術研究者として論証してみせた学者など、一人もいないのである。

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