Scribble at 2023-07-28 20:24:46 Last modified: 2023-07-28 22:00:11

古典の話を書いたが、誤解されると困るので少し話を展開しておく。僕は、書物について安易なセンチメンタリズムもシニシズムも抱いていない。人が書く著作物なり演劇なり映画などの総体、それどころか一冊の本とか1枚の絵画とかに、人にとって真に重要で本質的な真理が描かれているとか表されているとか、それどころか原理的にそういうことができると想像したり仮定することすら、僕のような哲学者に言わせれば「センチメンタリズム」である。しかし逆に、人が何を書いたり演じたり表現しても、そこに重要なこととか大切なことは何もないとあざ笑うような「シニシズム」も、逆の極端な無思慮や蒙昧であろうと信ずる。

どういう著作物や表現であろうと、或る何らかの条件においては誰かの何かの役に立ったり人に何事かを感じさせたりするきっかけになる可能性はあろう。したがって、われわれは可能な限り著作物や芸術作品や演劇の映像記録などを残して伝承した方がいい。もちろん僕は方法論的な権威主義者であるから、素人の自費出版した詩集や「哲学書」まで人類の財産として数えよなどとは思わない。というか、一定の身分なり資格をもつ人々の成果を遺漏なく保存するだけでも、実は大変な作業とコストがかかるのである。現代のように電子書籍やオンライン・ジャーナルが盛んになった状況でも、preprint サーバやアーカイブを維持するには多くのコストがかかる。正直言って、国立国会図書館は ISBN が振ってあるというだけで素人の落書きなんぞ受け入れている場合ではないのだ。

しかし、そういうことをするべきなのは、もちろん我々の能力が(どれが結局は有意義で重要なのかを誤り得ない水準で考えたり知りえないという意味で)限られているからだ。われわれは、自分自身が有限で未熟であるという自覚があればこそ、何事か(それは他人の著作物だけでなく、もしかすると自分自身の過去の日記だって含まれるかもしれない)に学ぶチャンスを自ら手放してはいけないのである。だからといって、そういうものをどれほどのコストで積み上げようと、ただの物量に圧倒されてしまってはいけないし、かといって物量に圧倒される自分の感情とかコンプレックスを和らげるために安易なシニシズムへ陥って、「本なんて読んでも意味がない」などと嘯くのも逆の暴論というものである。

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