2022年05月11日に初出の投稿

Last modified: 2022-05-12

いわゆる「優性思想」と関連する報道について議論している人物の論説をダウンロードしようとしたのだが、まだオープン・アクセスにはなっていなかった。そのため、別の論説を読んでみたのだが、まず文体が未熟で学生のレポートとしか言いようがない。あるいはブログ記事のレベルだと思う。そして、こういう論説を書こうと思い立つ人々の心情とはいかなるものかと考えさせられる。もう、あまりにもばかばかしいスタンスの持ち主のようだから、名前も論文のタイトルも紹介しない。さっさと埋もれて、検索しても5ページや10ページの結果を見ただけでは分からないところまで順位を下げたらいい。プロパーも、いちいち「こんなことを言ってる」とかリンクして紹介しなくていいよ。

俗に言う「逆張り」が学問として〈真実〉に至る道だと錯覚しているのか、ひろゆき=ホリエモン的なクリシン遊びをやって注目を集めたいのか、ネトウヨ的な動機による左翼叩きがしたいだけなのか、三流の封建主義者や右翼がやるように全ては国民が選んだことだと官僚や政治家の責任を免罪したいのか、それとも真顔で身体障碍者やハンセン病患者や発達障害の人々を社会的・制度的・医療的に〈検品処理〉したいのか、もしくはそういう帰結を伴う思考にも何か一理あるなどといたずらに価値観を相対化してポモ的な欲求を満たすエクスタシーを感じたいのか。そして、こういう趣旨を想像させる論説を学術的な自律性や中立性や客観性、あるいは「学問・表現の自由」と称して学術誌に掲載したり、果ては単行本として公にバラ撒いてしまう(分析哲学のプロパーにはお馴染みの)出版社があるという事実は何を示しているのか。

とにかく、日本の学術は僕が想像している以上に退廃的というか、英語や数学ができるていどで大学院に入った愚劣な金持ち学生の言葉遊びや政治的な駆け引きや自意識プレイの道具になりつつあるらしい。上記では敢えて伏せたが、やはり出版は公の事業なので言わせてもらおう。勁草書房、見損なったぞ。幻冬舎の編集者が転職でもしてきたのか?

なお、数日前にここで書いた下記の文章と矛盾したことを言ってるように誤解されるかもしれない。

https://www.markupdancing.net/archive/note.html?date=40da774c46f530729a6a54b90abf6822

僕が差別する側の心理や理屈を正確に理解するべきだと言っているのは、もちろん差別する人たちへ適切に対抗したり対処したり、場合によっては適切に治療するためだ。誰であろうと、僕らのすべてが何らかの脈絡で(その脈絡や理由を勝手に作り出すのは他人でもあるし、場合によっては僕ら自身でもありうる)差別の当事者となる可能性があるからでもある。上で述べたような、「アカデミック・カマトト」とでも呼んだ方がいいような判断の停止を学術的な客観性だと誤解しているような手合いと、僕のような哲学者が同じレベルの議論なんてするわけないだろう。

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