Scribble at 2022-11-02 10:49:04 Last modified: unmodified

歴史学の話として『大鏡』を読むというスタンスを採用すると、やはりいろいろな点で慎重に受け取らないといけないことが多々ありそうだ。もちろん、その多くは『大鏡』で書かれている内容についての話だが、敢えて書かれていない内容についても考慮しておく必要がある。

このスタンスが必要である根拠は、単純かつ明白だ。『大鏡』は一般的に平安時代後期の白河院政期に成立したとされていて、既に源氏や平氏といった武士が出現していた頃である。その時代から2世紀以上も前の天皇を皮切りに、著者から見て50年以上は前の藤原道長が権勢を誇っていた時代を語ろうというのであるから、まず著者がそもそも「平安時代」をどれほど知っていたのかという点が問題となる。むろん、当時の人々が「平安時代に生きている」なんて自意識も自覚も知識もないわけだが、少なくとも数百年前の事績についてどれほどの資料なり記録なり伝聞・伝承なりという情報をもっていたのかが問われてよいし、それらの情報をどれだけ史実として採用したり却下するだけの見識や根拠があったのかも問われるだろう。加えて、それらの情報が史実であろうとなかろうと物語に加えるべきかどうかの判断にも何らかの事情とか理由があったはずだ。

いわゆる「鏡物」と呼ばれる作品が「『歴史』物語」と呼ばれるにあたっては、こういう二重の着眼点をもっておかないといけないわけである。僕らが『大鏡』を過去についての情報であると見做すように、『大鏡』の作者もまた手持ちの資料や伝聞を過去についての情報と見做している。現代は文化や産業の表面的な変化は大きく速いように見えるため、平安時代なら50年前のことなんて大して変わらないだろうと思いたくなるかもしれない。実際、僕らが「古典文法」として学ぶ場合でも、本来であれば奈良時代から江戸時代の1,000年間に及ぶ歴史で文法や発音や表記や言葉の意味も変わっているのに、僕らはたいてい高校では平安時代の言葉や文法を習う。それだけ、変化がないという前提があるからだろう。

でも、それは前提というよりも打算と言うべきである。実際に古語辞典を丁寧に引けばわかるように、平安時代から江戸時代にかけて言葉の意味が変わってゆく解説が、いろいろな言葉について書かれている。本当は変化している筈なのに、後の時代については擬古文が採用されていた作品があったために、江戸時代の作品でも平安時代の文法に倣って読めばいい(本当は擬古文として正しいかどうかの批評は可能だが)という事情があったからでしかない。

加えて、本当に昔は50年や100年前から同じことをやってきたのかどうかは、正確に分からないとも言いうる。現代の僕らの理解では、旧石器時代の人々について生活が50年や100年くらいで大きく変化したと言いうる証拠はない。当時の、マンモスや肉食獣の毛皮で作った衣類に30年おきの「モード」があったなんて、いったい誰が議論したり立証できようか。結局は、何か結果として起きた変化があった時点によって時代というものは区分けされる。すべては結果論なのだ。令和時代がいつまで続くのか、そんなことは天皇の代替わりや崩御という結果によってしか特定できない。たまたま土器を制作するといった生活スタイルの変化が起きたことによって、それまでの長い時代が「旧石器時代」と名付けられただけのことなのだ。しかし、その間に変化が何もなくて「旧石器時代的」な何かが延々と続いていたと言える根拠はない(もちろんあったという根拠もない)。

ということなので、平安時代に生きた人物だからといって200年前の宮廷文化や暮らしや風習を正確に知っていたと言える根拠は、実はそれほどないのである。いや、そもそも知っていたかどうかすら怪しく、いま自分が暮らしている様子を200年前にも勝手に当てはめて描いている可能性だってあるのだ。それを描かれた時代も筆者がいた時代も同じく「平安時代」だからという一言で無視していいわけがないのである。

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