Scribble at 2022-04-26 09:31:23 Last modified: 2022-04-26 10:31:38

『骨風』という自伝的小説で泉鏡花賞を受賞したのは2015年のことだ。幼少期の父親との葛藤、その父親の最期、認知症の母とのやりとりや、時折金の無心をされていた弟の死、山梨での暮らしなどが記されている。

『笑っていいとも!』で人気者に、テレビから姿を消した「ゲージツ家のクマさん」80歳の今

なかなか読み応えがあって興味深い文章なのだが、「テレビから姿を消した」理由や原因や事情は何一つ書かれていない。山梨に工場を建ててから2015年に出版した(既に電子書籍しか販売されていない)本の話まで、その間に起きたことは20年ぶんが省略されている。

それはそうだろう。これほど長い記事を読まなくても常識的に推定できる人は多い筈であり、いわゆる文化芸人がテレビに出なくなる原因なんて、100年前から同じ筈だからだ。それはつまり、「飽きた」という一言でしかない。そして、テレビ番組の編成やディレクションを担当している者の多くは、そういう有効期限があることを承知していて、それがいつまでなのかを察知するような人々なのである。

公共の電波を使って放送・放映されるコンテンツや情報というものは、常に内容が異なる報道であるか、もしくは(或る意味で)常に内容が同じである広告でもない限り、それ以外は全て暇潰しの道具でしかない。それは、『白い巨塔』であろうと『白熱教室』だろうと『笑点』だろうと、社会科学的な効用という社会言語学的な範囲もしくは歴史的なスケールの観点から言えば同じことであり、それは(「ゼロの果てしない算術」と言うのが言い過ぎなら、僅かな数を社会科学的なスケールの誤差という範囲で足したり引いたりするような算術の結果としての)〈無〉と断じてよい。少なくとも僕は、本当かどうか、あるいは厳密に言って正確かどうかはどうでもよく、そういう思想にコミットしている者だ。したがって、皮肉に聞こえるかもしれないが、公共の放送というものは報道と、それから(否定したい人は多いにしても)広告こそが本来のコンテンツなのである。ドラマやバラエティや歌番組なんてものは、実は主客が逆なのであって、CM のおまけにすぎないのだ。

なんにしても、本質的に〈無〉であるようなコンテンツをあたかも新しく、さらに素晴らしい何かであるかのように、でっち上げては毎月のように続々と提供し続けるしかないのが、特定の目的やコンテンツで事業を展開することなく、いわば自律的かつ無目的に事業を続けるしかないテレビ局や新聞社の実態というものだ。

そういう中にあって、何十年と続くコンテンツの取り柄があるとしても、それは『笑っていいとも!』や『徹子の部屋』のような、無益無害なキャラクターをスケープ・ゴートにした(恐らく社会学的な観点では「天皇制」と言っていいような)文化的な埋め草とか、長きに渡って何も変わらない(と、嘘だとわかってはいても思い込むしか仕方のない)平凡なエピソードの羅列であるがゆえに、それは〈無〉としての価値を認められているだけのことだろう。要するに「長寿番組」などというものが成立するのは、それだけその国が文化的に何も成長していない証拠なのだが、かといって恥ずべき事でもなければ異常なことでもない。凡人が制作して凡人が眺めているようなコンテンツに、その国の生活スタイルや文化や見識や民度を底上げするような力など、どのみち殆どないからだ(仮にあるとしても、その効果は何百年とかけなければ結果が分からないほど些細なものだろう)。

それ以外の、歌舞伎町から連れてきた話の面白い(敢えてこう表現させてもらうが)「カマ野郎」とか、風貌が面白い芸人とか、異様に太った歌手だとか、異常で過激なだけの発言を思想だ言論だと称するキチガイ科学者とか、あるいはジミー大西を初めとする常識的には何らかの精神疾患を疑う他にない人々は、誰であれ最初から有効期限のある使い捨てのポスターみたいなものだ。時間が経てば、どのみち新しいポスターを上から貼り付けられるか、新しいポスターを貼るために剥がされてしまう他にない。冒頭で「これほど長い記事を読まなくても常識的に推定できる人は多い筈」だと書いたが、まさしくそういう人々こそ、いまここで僕が書いているようなことすら読む必要などない。

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