Scribble at 2025-04-29 13:03:24 Last modified: 2025-05-02 07:05:12
このたび、いつも利用しているノースブックセンターさんに2箱の蔵書を引き取ってもらうことにした。今回は大半が洋書のペーパーバックであり、中でも大多数はいわゆるビジネス書の類だ。そして、ビジネス書と言っても色々とあるが、経営者が個人として経験や意見を書いている本を売り払うことにした。理由は簡単で、こういうものは経営学やマーケティングの理論書、あるいは『七つの習慣』みたいな「説教書」の類とは違って、一度でも目を通せば十分だからだ。いや、正確に言うと目次や "preface" だけでも十分という場合だってある。経営者なんてたいていは思考や決断のスピードを高めるために、物事を第一印象や外見で即断する傾向があり、それゆえ最近は「あなたはものを見ていない」などと指摘するアマチュア現象学みたいな哲学まがいのビジネス書が現れたりする。でも、経営者というものはサイコパスだろうと発達障害だろうと、ものをじっくり考える余裕などないし、あってはいけない(遅れると負ける)のだ。まさしく、トランプ大統領が FRB のパウエル議長を "Mr. Too Late" と詰ったように、ビジネスにおいて決断が遅いことは、決断を間違えることよりも間違いなのだ。何かに遅れると、これは決して比喩ではなく、法人として死ぬ場合だってある。
なので、僕はビジネス書の評価についても、こういう本を書いている人々と全く同じ方針で取捨選択している。初手を間違えることよりも、いつまでたっても初手を出さない方が大きなリスクを抱えることになる。したがって、この手の本は安く手に入るならともかく買ってみて(僕がアマゾンで買っている、経営者や経営コンサルの自叙伝みたいな本は、だいたい数百円だ)、そして序文や目次だけでも是非を判断できるなら即断して、読まなくてもいいと分かれば、さっさと売り払ってしまうことだ。ビジネスでも学問でも、あるいはごく普通の生活でも、生産性が低い人に共通する特徴は、些末なことのリスクを気にして大通りの端をこそこそと歩こうとすることにある。どのみち誰でも数十年で死ぬんだから、それまでに納得ゆくことを一つでもやっておきたいなら、もちろん違法行為や戦争はお勧めしないが、大通りのど真ん中を堂々と突っ走ることをお勧めする。
僕が小学生の頃から「帝王学」を調べて、些細な範囲でも実践しているのは、自分が何も偉いなどと思っているからではなく、自分自身の生き方なり人生を「統べる」権限や責任は自分にしかなく、その意味で(自己認識という話題について哲学としての議論がいくらでもできることは、もちろん知っているが)僕らは自らを可能な限り支配しなくてはならないと思うからだ。自堕落あるいは欲に任せているだけなら、それは「本能」とか「好き嫌い」というよりも、寧ろそれこそ「ロボット」というべきであろう。これは自慢話でもなんでもなく、高校時代に下級生や上級生も含めた僕のファンクラブができるほどだったが、女の子と付き合うよりも思想書を読んで学ぶことに十代の後半を費やしたのは、そういう理由があった(これは敢えて自慢話として言うが、難波や梅田で芸能事務所のスカウトを何度か断ったこともある)。ともかく、SNS 漬けの小中学生などを見ていると、どれほどアプリで楽しく美麗なイラストや動画を描いたり、複雑なゲームや小説を作っていようと、哲学者である僕らからすれば実験室のサルも同然である。しかも、デザイナーでもある僕からすれば、昨今の若者のイラストや歌や小説などは「クリエーティブ」の名に値しない。サルが自分のチンコやケツをゴシゴシと掻いているようなものだ。
それから、経営者個人の来歴や意見を述べているビジネス書というのは、もちろんだが 99.999% は嘘っぱちである。記憶の美化、思い込み、あるいはゴースト・ライターも多いということは、僕自身が神保町で出版社の中にいたという経験だけではなく、プレジデント社などの実務も聞いたことがあるので、よく知っている。こんなことは、彼らからの聞き書きが研究や調査の基本であるとしか言いようがない、ていどの低い学問である経営学の人間は決して言わないことだと思うが(経営学には経済学系と社会学系の二系統があり、そのうち社会学系の経営学というのは殆ど社会科学の名に値しない、上場企業の太鼓持ちだ。もっとも、経済学系の経営学も株式市場の太鼓持ちという意味では同じ程度に愚劣な学問だが)、ベンチャーの経営者に本を書く暇などないし、大企業の経営者にも本を書く暇などない。というか、そんな暇などあってはいけない筈なのだ。なので、こういう本は最初から「会社案内の沿革」みたいなものとして読むべきであり、嘘かどうかはともかく(どこまで嘘でどこまで事実であるかを調べるのは、たいてい不可能だし、僕らが理解しているレベルのまともな経営学から言えば無意味でもある)、一つのストーリーやフィクションの小説として読むべきである。なので、そういうものはよほどの古典的な著作でもない限り、実際のところ本当の文学作品でも二度と読むことはないのである。