Scribble at 2025-04-29 17:03:03 Last modified: unmodified

東京で雑誌の編集者をしていた20歳前後の頃は、板橋区の西台に住んでいた。23区内でも北の端に近くて、休日に自宅のマンションから歩いて荒川の河川敷に行ったり、その途中にある「前谷津川公園」という川を埋め立てて造成した細長い公園で読書することが多かった。このあたりは住宅地の割に人が殆ど出歩いておらず、それはつまり公園に子供連れの家族や保育園から引率されてきた幼児がぜんぜんいないということなので、公園で静かに読書できたからだ。もっとも、子供がいようといなかろうと実は関係ないのだが(周りの子供が騒いだくらいで読書できなくなるようでは、内容に集中していない証拠だ。これは精神論とかではなく、実際に成績が良い人は家庭で兄弟などが騒いでいても集中して勉強できる人なのだ)。

そういうわけで、僕がメディアなどの文章で描かれたり言及される「東京の下町」というのは、多くの人々が街中を出歩いていて雑踏での世間話や井戸端会議がほうぼうでなされているような情景とは違って、茫漠とまでは言わないまでも、何か生活感の乏しい印象がある。なので、たとえば多くの人は(特に東京に住んだことがない人にとっては)柴又や亀有や足立区あたりの地域を東京の下町として思い浮かべるのかもしれないが、そうした地域も実際にはさほど騒然としているわけでもないと思う。ただし、観光客が訪れるような場所なら、とりあえず人は多いのかもしれないが。

それから、実際に地図で確認してもらえば分かることだが、これらの「下町」と呼ばれる地域は千葉県や埼玉県と境を接するようなところであり、江戸時代だと罪人を追放したようなところだ(もちろん、僕が生まれた目黒区の緑ヶ丘あたりも神奈川との県境に近く、親に言わせれば僕が生まれた当時は狸が徘徊するようなド田舎だったと聞く)。特に足立区の大半は荒川よりも「外」にあるため、江戸時代までは原則として「江戸」とは認識されていなかったであろう。これは、そもそも川に(江戸領内を守るためという理由で)橋がかかっておらず、渡し船を使わないといけなかったからだ。古いフレーズで「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」というのがあるけれど、当時の日本の主要な町は、まず川で防衛されたり通行が堰き止められたりしていたわけである。時代劇で見聞きする「江戸払い」という追放刑だと、罰せられた者は千住よりも内側に入ることを許されなかったのだ。

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