Scribble at 2024-02-29 14:41:52 Last modified: 2024-03-01 07:25:31
数日前に見かけた記事だ。そして、そのときにサンク・コストがどうとか、あるいは AI の開発部署は別に自動車なんて作らなくてもいいとか、あと他にも考えていたことがあったのだけれど、それはなんだったか忘れてしまっていた・・・のだが、こうして記事として書き始めると思い出した。
そうだ。自動運転を実装しようがしまいが、そもそも自動車(とりわけ「自家用車」)という産業そのものが斜陽と言ってよいのではあるまいかと感じたのだった。なので、Apple の決断は、目先の EV 市場がどうこうなんて話じゃないという見通しで車の生産から撤退したのであれば理解できる。
僕は歩行について色々と考えるようになってから、交通学とか交通科学とか交通政策学とか都市計画論といった分野だけでなく、そもそも mobility という概念ですら「車をどうするか」という発想の上に立っているという印象があって、哲学者という立場からしても不愉快だ。よって、たとえばトヨタが大地震を前に静岡なんてところに実験都市をつくるとか言ってるわけだけど、その「モビリティ実験都市」の計画に、果たして大地震で都市機能が寸断したり崩壊した状況で、物資や救助人員をどうやって災害現場へ運び入れやすく街を設計するのかなんて視点が反映されているのかなと思う。車が通れりゃいいとか、単純に車と自転車と歩行者とをレーンで分けるなんてことだけでは、なんにも解決していないのは明らかである。それに、その街の中だけで生活の大半が完結するなら、「車は要りません」という結論も許容する計画でなければいけない。営利企業が、そんな自滅的な結論を許容するプロジェクトを承認するわけがないというのが、単純な左翼的印象ではあるけれど、しょせんトヨタみたいな上場企業のサラリーマンだって、東大やソルボンヌを出ていようと凡庸な人間として考えることは知れている。