Scribble at 2021-10-01 13:40:46 Last modified: unmodified

以前も書いた話だが、本を丁寧に読み、読んだ内容について何事かを考えてゆく(そして、その成果を手帳にでも書いてゆく)とすればどうか。デカルトの『方法序説』やウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』といった、敢えて薄い著作物を選んだとしよう。それらを一通り読み通して成果を積み上げるのに、毎日の夕食後を1時間ほど費やしたとすれば、そういう短い論説の読解であろうと一ヶ月はかかるだろう。これがアダム・スミスの『諸国民の富』やカントの『純粋理性批判』など大部の著作物ともなれば、半年や1年を要しても全く不思議はないし、当たり前だとすら言える。仮に、速読や多読をもって何かの取り柄と称する人々が、お得意の技能でもって同じことを実行するとしよう。そういう人々は、『方法序説』のように100ページ足らずの著作物であれば、ものの数十秒で読むと称する。したがって、彼らは僕ら凡人が毎晩の1時間を費やして読み込んでいる同じ著作物を、読むという工程だけに限って言えば何倍もの速さで処理できる。しかし、著作物の読解をしている場合には、『方法序説』の文章を僕ら凡人は2行ほど読んで、それが何を言っているのか、それが何を意味しているのか、それが何を意図しているのかなどと考えている時間の方が長いので、僕らが2行の文章へ目を通すのに10秒ほどかかるところを、彼ら神のごとき速読家が0.01秒で完遂できるとしても、それから後の読解や思索にかかる時間が殆ど同じであれば、結局のところ著作物の読解にかかる所要日数は同じではないかと思う。(もちろん、速読のセミナー講師らは、速読ができるようになると「思考力」が向上して、ものを考える速度とやらも速くなると言うのだが、それについては速度そのものの証拠よりも更に、何の証拠もない。)

この文章で僕が意図している主旨は、古臭い読書百遍うんぬんとか写経まがいの精神論を展開することにはない。そうではなく、現実の手順とか大多数の人々の能力から言って、本を(もしそうする動機や事情があるとして)丁寧に読解するのであれば、そんなに簡単に本を読破したり、短期間に何冊もの本を読んでいけるとは思えないし、そうする必要もないのだということである。しかしながら、その読解にはしかるべき限度というものがあるのも確かなのであろう。なぜなら、やろうと思えば一冊の本を何回でも読み直したり、何度でも自分の読解を吟味し直したりできるからである。しかし、ヒトの認知能力の生物学的な限界とか、あるいは我々という個人の能力の限界から言って、読解が常に知識という点で不完全であったり、思考能力の不完全さという点でなんらかの錯誤が生じるかもしれないのだから、そういう読解には恐らく原理的に終わりがない。よって、何度でも読解は繰り返せるし、いつまでも読解は続けられる。だが、読解自体が目的というわけでもないなら、それをする理由から言って、いつまでも続けてはいられないだろう。

司法試験の受験生は、法律の分野で「基本書」と呼ばれる書物を通読して試験に備える。それらの著作物についても、やろうと思えば何度でも読み直して色々な論点について考えられる。しかし、試験の受験生が憲法の基本書を読解することだけにこだわって何回も繰り返して読み直し、刑法や商法の基本書に全く手を付けなければ、司法試験に合格するわけがない。それと同じく、現実に読書という行為がそのままヒトとしての生存なり生活であるわけもない我々にとって、原理的に幾らでも繰り返せるからという理由で読解を好きなだけ何度でも繰り返すのは、偏執症や自閉症やら何らかの精神疾患でもない限り、これはこれで人としての未熟さの証だと思う。

そうは言っても、僕は両方のスタンスについて真面目に理解してもらいたいとは思う。かたや、一冊の書物を丁寧に何度でも読むという執着があってもいいし、それが学問に携わるための有益な能力の一つでもあろう。こういう、大阪弁で言えば「アホみたいな」しつこさは必要だ。しかし他方で、小さい成果を堅実に積み上げていくことも、近代以降の制度化された学術研究においては不可欠であろう。そして、プロパーであればともかく、アマチュアであれば、一冊の古典を何十年にもわたって何十回と読み返したり、何度でも読解を重ねることだって有益な筈である。

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