Scribble at 2024-08-08 20:50:52 Last modified: 2024-08-09 19:43:38
三流の芸人同士が SNS でトラブルになったなんて些事を取り上げる理由は全くないのだが、それでも上の記事を取り上げるのは、出版社のスタンスなり見識については意見を書く意味があるからだ。つまり、そもそもこの出版社は本来の「芸人」でもなんでもない人物を取り上げている時点で、最初から編集方針が間違っているのだ。
僕は、もともと「文化」なかんずく「芸能」や「スポーツ」という概念には一定の疑問を感じていて、これらが文楽や歌舞伎であろうと歴史的には売春宿などと同列の賤業であったり、あるいはオリンピックやプロレスのようにもともとは奴隷の見世物だったという経緯を隠蔽している事実なども含めて、お約束というか建前を維持することが社会的な許容度を保つためには重要であり、そのためには一定以上の水準の実績を出すなり芸を演じるなりという事実の裏付けが必要だと思うんだよね。それがない、昨今の雛壇芸人と呼ばれる無能なお笑い連中や、「タレント」などと呼ばれている無数の、新地のキャバ嬢にすら会話や知識で及ばないような、元何々大学のクィーンだの帰国子女だのという飾り物のお姉ちゃん、それから歌舞伎町にいくらでもいるツンデレ会話しか能が無いオカマとか、他にも音楽や演劇なんかでも大同小異なんだけど、そういう中途半端どころか芸や才能がない人々が簡単に飯を食ってる国なんだよね。食えなくて廃業する人も多いと言うけど、そういう人も含めたら相当な数の若者が関わっている。
これは、もちろんスポーツにも言える。人口が1億を超えているからというだけで、そもそもこの国にサッカーのプロ・チームが10も20もある事自体が不自然なんだよね。他にもスポーツ競技に参加している人たちがたくさんいるというのに、海外と比較してプロのレベルに達すると言えるような人材がそんなにサッカー界に集まってくるわけないんだよ。これと比較するとブラジルにもサッカーのプロ・チームはたくさんあるけれど、ブラジルにはプロの競技はサッカーとバレーボールくらいしかないからだろう。
ともあれ、妙な格好してるだけの、お笑いなのか何なのか分からない「タレント」と称する連中を、この国のメディアは使いやすいというだけの理由で、バラエティなどという馬鹿げた番組を続けていることも含めて、とにかく手抜きの芸能を垂れ流し続けてきたわけだよ。僕は芸能について、どういう歴史的な経緯があろうと個々の才能によるパフォーマンスであることに変わりはないと思うし、もちろん敬服に値する演者や芸能関係者も多いことは知っている。とりあえず、社内研修などで話しているときの発声とか、喋り方の調子などは、故上岡龍太郎師匠を参考にしていることも多々ある。しかし、だからこそ奇怪な外見や喋り方、あるいは属人的な態度だけで芸能のパフォーマンスだとイージーに扱われているような人々を教科書に取り上げる不見識に疑問を投げかけたいわけである。僕は権威主義者なので、お笑いや芸能などについても是非を論じる権威はあると思っていて、こんな服装なんていう誰でも着ようと思えば着られるような外見だけで芸人を装っているような偽物を取り上げる不見識については、最初から間違いだったと反省してもらいたいわけである。
たとえばだね、アメリカにも身長が病的に小さいエンターテイナーというのはいるんだよ。でも、そういう人の中から厳しくパフォーマンスの才能で選ばれた人だけがテレビに出て飯を食ってるわけだよ。これに対して、日本の場合は外見が、つまり体形や服装や化粧が変わってるだけの人物を「タレント」だの「芸人」だのと簡単にテレビで使う。これは要するに、なり手がいないから競争がないわけだよね。そうであれば、どこもかしこもワイドショーやバラエティなんて番組を横並びで作らずに、別のエンターテインメントがないか考えるのがプロのメディアというものだろうと思う。いくらこの国が「歴史上で最も発達した社会主義国」であり、資本主義と自由主義のコスプレ国家だからといっても、ここまで北朝鮮みたいに同じことをするしかないというのでは、もうテレビ局も半分くらいで良かろうという話になる。それでは言論の自由が維持できないなんて言うかもしれないけど、おまえら日本のテレビ局なんて最初から自由に番組を作ってないじゃないかって話なんだよ。制度から言っても、電波の割り当てや事業者としての許認可権とのバーター取り引きで政府の中立性というお題目に従うしか無いわけだし。
それから余談だが、この「フワちゃん」とかいう人物が Google Pixel の広告に出ていたのは知っていたが、Google は即座に広告を削除している。そして、それは Google に限らず多くのグローバル企業が定めている code of conduct に従えば当然の措置であった。こういう対応について、もちろん日本は法治国家ではないから、「そんなに厳しくしなくても」という、いつもの動機主義に訴えるコメントが SNS などに出てくる。それはつまり、いまだに三島由紀夫のテロ行為を文学者の自己主張だの思想的なパフォーマンスだのと過大評価して馬鹿げた文章や思弁をもてあそぶ連中が物書き出版業界に多いこととでも分かるように、動機が純粋で悪意がなければ結果責任は問わなくてもいいという、要するに無能や凡人のやることを免責する思考である。このような事例でも分かるように、特に都内でものを書いているリバタリアンや、SNS で威勢のよいベンチャー・ビジネスの経営を語るような若造どもは、こういう事案があると口々に「規制は悪である」とか「ルールは人の創造性を縛る」とか、何の根拠もなければ実証もできないことを言い始めるわけだ。しかし、現にこういう厳しい code of conduct を維持している Google に採用される能力すら無い、東大の修士ていどの連中が、他人のプライバシーや個人情報を弄ぶようなビジネスしか考えつかないくせに、クリエーティブだのイノベーションだのと脱法行為を正当化するようなことを言い続けたところで、何の説得力もないのである。結局、おまえたち都内で「起業家」と称してるゴロツキどもなんて、最後の最後は反社のペーパー・カンパニーから巨大もしくは大量の空発注をしてもらって財務諸表を整えることで、銀行の融資を受けたり、頭の弱い VC から投資金を巻き上げたり、あるいは監査会社も騙して上場するようなクズのくせに、ベンチャーだのイノベーションだのを語るものではないと思うね。