Scribble at 2024-12-09 15:25:08 Last modified: 2024-12-09 19:04:32

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元同僚の男性を電車にはねられるよう仕向けて殺害したとして、警視庁は9日、東京都小平市の塗装会社社長、佐々木学容疑者(39)(同市栄町)ら男4人を殺人と監禁容疑で逮捕したと発表した。被害者の死亡に至る暴行がない事件に、殺人容疑を適用するのは異例。4人が日常的に男性に暴力を加えるなどし、抵抗できない状態に追い込んでいたとみている。

容疑者スマホに「踏切に行きたいんだって」の音声、暴力の動画・画像も…元同僚を自殺偽装で殺害か

ぶっちゃけ言って、この手の疑いをかけられるような連中が、不起訴になろうと、あるいは刑期を終えて出所しようと、隣近所に住むかもしれないとか、あるいは同じ会社で働いてるかもしれないなんて、あんまり希望も期待もしたくないよね、ふつう。差別だ偏見だと言われようと、再犯率は7割に近いと言われている現状で、「次の被害者」が自分であることを自らすすんで確率を上げるような馬鹿はいない。それが社会学者などから見て由々しき人間の考えであろうと、死んだ人間や遺族に対して、「排除型社会」などとお手軽な左翼シールを貼り付けて回るかのように本を書いてるだけの社会学者が何を償えるというのか。被害に遭ったら、その一度かぎりのケースで人の人生は終わってしまいかねないのだ。それに比べたら、差別だの偏見だのと学者に批評されるくらい、屁みたいなものではないの。

・・・と、ひとまず露悪的に書いてはみたものの、正直なところ理屈として対抗したり説得するのは難しかろう。これはつまり、東北の大震災で多くの人々が「放射能ママ」と呼ばれようと東北の第一次産業に対する風評だと言われようと、そのひとくちを食べて自分の子供が癌や他の病気になったら、いったい誰が何を償ってくれるのかという思考になり、科学者の多くは明快な反論を加えたり説得できなかったのと同じ状況だからだ。そして何か言おうとした場合でも、これは話が確率や統計の問題である以上、あたりまえだが科学者が科学者として常識的な数学の計算ができるからには、大半の科学者は、癌になるリスクは「ゼロ」だとか「絶対に」安全だとは言えないという理由で何も言えないか、あるいは無理に何事かを明言しようとして、逆に数学という理屈を利用して詭弁であることを非難されるかのどちらかにしかならないわけであった。

この事案でも同じことが言える。罰せられようと無罪放免だろうと、こんな連中が近くにいては困るわけで、僕は一人の社会人としては「佐々木学」「島畑明仁」「野崎俊太」「岩出篤哉」という氏名を記録しておいて、隣近所の表札や郵便箱に表記されている氏名だとか、もちろん会社の同僚なり取引先の名刺などに該当する名前がないかどうか、それこそ定期的に確認するといったことをしてもいいとは思っている。もちろん、同姓同名がいて偽陽性のリスクはあるし、出所してから偽名で暮らしていて偽陰性のリスクもあるだろうが、まさにその当人が隣に住んでいるなんていうリスクを放置する気など毛頭ないわけだ。そして、これを公的なデータベースとして整備したり公表しろとまでは思わない。気にしない人にも同じように認識しろと言うのは、それこそ institutional racism (or institutional discrimination) となるからだ。そこまでは求めない。ただ、求める人に隠すことは不当だろうと思うので、性犯罪者のデータベースが一定の組織に開示されている事例でも分かるように、社会学者にとっては面白くない世の中になっていくのだろう。

https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20230316/se1/00m/020/002000d

上のページは、大学構内で襲撃された宮台真司という妙な社会学者の談話だ。編集されていて、会話とは思えない文面になっているが、一つだけ言えるのは、この人物こそ若者や世代を一括りにして断定や勝手な推論を繰り返しており、社会学者としては驚くような偏見の持ち主と言えるということだ。たとえば、最近の若者は色々な出自や家庭状況の子どもと遊んだ経験がなくて画一的な育ち方をしていて目立つことを嫌うから云々という、テレビや新聞の記者が書き散らすお手軽な世代論を繰り返し、学者やタレントなど好き勝手にパフォーマンスや主張を展開する人々へのルサンチマンから炎上に加わって芸能人の SNS 投稿へ罵詈雑言をリプライしたり反知性主義へ走るのだという。こんな小学生並の社会学評論をいまだに真顔で語っている人物が大学にいるのも驚きだ。また、日本は所属意識が強く云々という錆びついた日本社会論を繰り返し、海外では給料が少しでも高いところへジョブ・ホップするなどと平気で嘘を言う。実際には、そんなことをするのは大企業のプロ経営者か、逆に最底辺のゴミ掃除やウェイトレスだけだ。大半の人々は、就職した地元の工場で定年まで働いたりするものだし、第一次産業の場合は会社どころか農業や漁業から生業そのものを換えることなど殆どないだろう。

そして、これからの日本では「共同体」が重要だという。これはつまり、簡単に言えば政府や個人ではなく集団で社会を立て直したり維持するということであって、バラバラに生活していて自治会の会費や共同のゴミ掃除すらしないワンルーム・マンションの若者には異世界の話であろう。そして、言い方を替えるなら、これは自分たちが住む地域の安全や安心を自律的に達成しようという意味でもあって、僕に言わせればこんなものは「21世紀仕様の新型部落差別」やムラどうしの対立にしかならない。こういう、ハーヴァードの熱血教室オヤジが広めたコミュニズムというのは、単位となるコミュニティの醸成によって更に広範な地域や国家も改善するという机上の空論でしかないのであって、現実には国家レベルの事案がコミュニティの単位で論争の火種として落とし込まれるようなことになりかねないのだ。そして、前科のある人々について、僕が言っていることよりも更に酷い監視社会となる可能性もあろう。

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