Scribble at 2022-02-07 16:34:53 Last modified: 2022-02-07 17:21:32

電通の吉開章氏の『ろうと手話 やさしい日本語がひらく未来』(筑摩書房、筑摩選書、2021)で、「ろう者が現在も抱える諸問題の原因は、聞こえる日本語母語話者という多数派が、自分たちのロジックでろう者に関わってきたことにある」(p.144) との指摘がある。

障害とは別の脈絡ではあるが、哲学や数学を学ぶ人々の多くも、単なる好奇心や受験勉強といった動機や目的だけではなく、通俗本や「わかりやすい」本をわざわざ買ってまで手に取ろうとするならなおさら、他の教科書や古典を読んでも分からなかったとか、あるいは何らかの疑問や悩みをもっているという事情において、或る種の〈ハンディキャップ〉を抱えているとも言いうる。

そして、そういう観点で日本の教科書や通俗本を眺めると、やはり僕が従来から何度も指摘してきたように、日本の哲学や数学のプロパーが書いてきた教科書や通俗本の類は、結局のところ「分かっているプロパーや思想オタクという(業界内での)多数派が、自分たちのロジックで初心者や門外漢に関わってきたこと」に問題というか書籍の構想・構成・構築に著しい未熟さがあって、僕に言わせれば「クズ」みたいな本ばかり続々と出版しているといえる。またぞろ、小平の英雄が初めて世俗の名声を手にした暇となんとかという本が文庫化されてばらまかれているらしいが、そうしたまさしく暇潰しの道具としか思えない読み物に「感動」する健気な若者の相手をして得意げになっているらしい哲学プロパーをロール・モデルとして、いまでも東大や京大に続々と物書き志望の学生(彼らの目標は、もちろん岩波書店から著作集を出して「知の巨人」と呼んでもらうことだ)が押し寄せているわけである。

かような〈分かっている側の者として、分からない人に向かって「やさしい」本を書く〉というロール・モデルしかなくなった大学人や物書きばかりが増えていくようなクズ国家で、いったい大学で哲学など学べるのかと逆に不安を覚えるしかなくなる。それこそ、英語やドイツ語だけできる密輸業者が、洋書を読めるというだけで〈分かっている側〉に立ってしまう、つまり密輸品の独占販売ができるという錯覚なり自己欺瞞が、明治の祖述者たちの時代から、まったく解消もされずに却って強化され上塗りされていくのだから、始末に負えない。そもそも哲学や数学という分野において〈分かっている側にいる〉などと当人が自覚している時点で、それは無能の自己証明であるにもかかわらずだ。

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