Scribble at 2022-10-08 08:41:58 Last modified: 2022-10-08 08:51:14

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関西古書研究会(Edge では JavaScript の読み込みが終わらず、表示不能。なんでこんな無用のライブラリを使うんだろう。プロのデザイナー兼エンジニアとして理解しかねる)

昨日は、所用を済ませた後に四天王寺へ行ってきた。この時期は関西古書研究会が「四天王寺 秋の大古本祭り」を開催していて、実母が亡くなった2018年に行った後は、新型コロナウイルス感染症の流行という事情もあって、暫く足を運んでいなかったから、久しぶりに足を向けたわけである。昼過ぎに四天王寺へ到着して、13:30まで1時間ほど眺めてから、昼食は『虹の仏』というスパイス・カレーの店で採った。ここは四天王寺へ来たら何度か訪れていて、僕には量もちょうどいいし、他のスパイス・カレーの店と比べて安心して食べられるのが助かる。ここもインデアンカレーと同じように、毎日でも食べられる類のカレーだ。これまで、大阪市立中央図書館へ行く途上でスパイス・カレーの店にいくつか入ったけれど、やたらとインドや東南アジアの何かにこだわっているのか、本当に現地でこんな味が好まれているのかどうかもわからない奇妙な味付けをされるのは困っていた。なので、たいていのスパイス・カレーの店には二度と足を運ばなかったのだけれど、ここだけは別である。なお、『虹の仏』はシエスタか仕込みなどの事情で14時にいったん店を閉めるらしく、僕らが最後の客だった。なので、行ってみたい方はラスト・オーダーが13:30までのランチ・タイムか、18時以降(夜の部)に予約することをお勧めする。で、ここはカレーの内容が日替わりなので、僕はホルモンの辛いカレーをいただいた。とは言っても、インデアンカレーのような刺激は殆ど(僕には)ない。ホルモンは要するに「こてっちゃん(腸)」なのだが、意外とたくさん載っていて食べ応えがあった。また来よう。

昼食をいただいた後は、16:30くらいまで四天王寺で古本を物色していた。その成果が上の写真である。そして、いちばんの成果は、実は『虹の仏』で昼食を採るまでの1時間で見つけた『大鏡新講』(次田潤、明治書院、1982年の重版で初版は1961年)だ。これが2,000円である。他はどれも200円で、幾つかの店を回って少しずつ買ったものだ。

岩波の『哲学』という叢書は、もともとこの手の叢書は、知的骨董品の展示会パンフレットみたいなものだとバカにしていたのだが、岩波の情報科学の叢書で考えを改めた。とは言っても、このシリーズだと「科学の方法」という巻に収録されている黒崎宏氏の説明理論の概説は過去に一読したことがあるけれど、それ以外は殆ど科学哲学のプロパーとは言えない筆者による、マルクス主義のチラシみたいなものや、自然科学者の手慰み的な意義しかないエッセイだらけであり、確か修士の頃に目次を眺めて唖然とした覚えがある。それもあって叢書というものに辟易していたのだけれど、中には興味深い巻もあることを知った。大昔の百科事典みたいに全巻をセットで揃えるようなものではないが、かといって一律に現時点での最も有名な(だけの)人々が書いた哲学エッセイなどと蔑むほどのものでもないと、評価を改めたわけである。

三省堂から新書として出ていたという森浩一先生の『古墳文化小考』という本は、もちろん中学生の頃に読んだ記憶があるし、実家にもあった筈なのだが、どの段ボールに入っているのかわからなくなっているし、中学時代に読んだのは別の出版社から出ていた同書だったように思う。既に発表された文章を編んだエッセイ集だが、古墳についての概観(古墳や古墳時代だけではなく、古墳という文化財の保護についても)を得る良い一冊だ。

それはそうと、金曜日は「四天王寺 秋の大古本祭り」の初日だったけれど、あいにく午前からずっと雨が降っていた。それゆえ客が少なく、本をじっくりと物色するのに好都合であったのだが、地面が濡れていて泥が靴に着くし、何時間も同じような場所にいると靴下も多少は濡れてくる。前日から雨の予報は知っていたけれど、殆ど備えをしていなかったのは後悔している。雨天が分かっていた上に終日の予定で出かけるなら、靴に防水スプレーを吹いておくなり、替えの靴下を持参するなりは用意した方がいいだろう。

このイベントは、出向くたびに何かしら興味深い本が見つかるので助かる。関西古書研究会という団体は、八尾市にある古書店が主催しているらしく、文字通り関西の広範囲に会員となっている店舗があり、今回も滋賀県や奈良県からも出店していたようだ。大阪市内の店だけだと、全ての店舗を1時間ずつくらいで回るだけなら電車を乗り継いでやれないこともないが、これだけの広範囲に点在する店舗を全て回るなんて無理だし、電車賃だけで数千円がかかってしまう。なので、一ヵ所に集まってくれるのは好都合である。確かに、『日本の古本屋』というサイトも利用しているので、これはこれで有用なのだが、やはり実店舗で眺めると別の発見がある。ウェブサイトは、トップページでランダムもしくは何らかの規則性で表示される適当な書籍は別として、そもそも検索しなくては何も見つからない。それに比べて、実店舗は検索しようがない代わりに、検索しなくても眺めていれば何かしら見つかる。これは、効率を無視する限り、どちらが良いの悪いのという比較をすることはナンセンスであろう。それゆえ、或る意味では贅沢な話をしていることになる。そもそも古書店を利用すること、つまりは古書を読むこと自体が一種の好事だとすら言えるのだが、そういうことに意味があるという人にとっては、かようなイベントに出向くことはコンピュータに向き合うだけにとどまらない何らかの収穫を期待できる。図書館へ行くのも、無料で本が借りられるというだけではない別の効用があると知っているからだ。本当のところ、検索して何かを見つけるなんて作業はクソだと思う。機械的に済むことは機械にやらせればいいのである。よって、そういう機械的な作業に介入する、Google のマーケティング一筋といったクソみたいなアルゴリズムも、あるいはたとえ何らかの善意があろうと DuckDuckGo の未熟なアルゴリズムも、しょせんは利用者が意図しない結果をもたらす品質だというだけで「クソ」と言っていい。無能は、善意だろうと悪意だろうと哲学者の前では無能という一点だけで等しく無価値であり、クソである。

それから、出店している中に「1冊300円、5冊で500円」という不思議な設定の店舗があり、アルバイトの学生なのか、彼ら自身が営んでいるのかは知らないが、何人かで店を切り盛りしている様子だった。単行本や音楽 CD や岩波新書や岩波文庫など、どれであろうと同じ設定で販売されているため、興味を覚えて物色し、途中までは講談社学術文庫のライン河を扱った本を1冊だけ手にしていたのだが、途中で元に戻して店を後にした。得にも思えるが、しかし最低でも500円分は買わざるを得ないという心理に陥るのが、自分で気に入らなかったからだ。いくら安いからといって、読む必要があるかどうか確信を持てない本を手元に置くほどの余裕はない。しかも、必要な本は1冊300円であろうと、その値段で買えばいいのだ。1冊あたり100円にまで単価が下がるからといって無理に5冊も買う必然性がない。そして、そう思うと、ライン河の本を300円でいま買って読む必要があるかどうかは確信がない。それに加えて、もし7冊を選んだらどうなるのかが分からない。それらのうちの5冊は500円だが、あと2冊は300円ずつになるのか。それとも5冊以上なら何冊でも1冊あたりの単価が100円になるのかが不明だ。そんなこんなで、色々と面倒なことを心配しながら本を選ぶのは文字通り面倒になってしまったわけである。

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