Scribble at 2026-03-11 13:02:57 Last modified: unmodified
[Gemini の解説] タッド・スコトニツキ(Tad Skotnicki)によるこの論文は、社会学者が「文化」を用いて議論を組み立てる際の方法を、部分と全体の論理関係を扱う「メレオロジー(mereology)」という視点から分析したものです 。著者は、文化が何をするのかという「作用」に注目しがちな従来の議論が、無意識のうちに実証主義(positivism)的な枠組みに縛られていると指摘し、それに代わる新しい議論のモードを提案しています 。論文の核心は、文化を用いた議論を「断片的(fragmentary)」と「構成的(constitutive)」という2つのモードに分類した点にあります 。まず、現在主流となっている「断片的」な議論のモードでは、文化は他の要素(経済や政治など)から独立した「力(force)」を持つ自律的な「部分」として扱われます 。このモードでは、例えば「文化が経済にどのような影響を与えるか」といった、文化の具体的な効果を特定することが議論の主眼となります 。ここでの「全体」とは、単にそれらの独立した部分が集まっただけのものと見なされるため、分析上はあまり重要視されません 。著者は、文化を「独立変数(independent variable)」として扱う「強いプログラム(strong program)」などの研究も、この断片的なモードに含まれるとしています 。一方、著者が提唱する「構成的」な議論のモードでは、文化を単独で機能する「力」としてではなく、他の要素と互いに規定し合う「媒介(mediation)」の関係として捉えます 。このモードでの関心は、文化が何をするかではなく、文化がどのような「形態(form)」の一部として組み込まれているかにあります 。ここでは、個別の要素が合わさって形成される「全体」(例えば、資本主義や特定の制度的エコロジー)が分析において極めて重要な役割を果たします 。文化はそれ単体で何かを引き起こすのではなく、特定の全体性を構成し、それを可能にする不可欠な要素として記述されます 。著者は、これら2つのモードを区別することで、社会学における説明のあり方をより柔軟に捉え直すことができると主張しています 。断片的なモードだけに固執すると、すべての議論を「文化の効果は何か」という実証主義的な問いに回収してしまい、構成的な議論が持つ独自の洞察を見逃してしまうリスクがあるからです 。結論として、この論文は文化そのものの定義を争うのではなく、文化を使ってどのように論理を構築するかという「議論の作法」に光を当てています 。それによって、文化と社会構造を切り離して因果関係を問うこれまでのスタイルと、それらが不可分に結びついた全体的な「形態」を記述するスタイルの対話を促そうとしています 。
mereology とは懐かしい言葉だ。思い返すと、神戸大に在籍していた頃のことだが、まだ若手の助教授のおひとりであった松田 毅先生から mereology について興味があるという話をうかがったことがある。その後、実際に mereology を取り上げる論文が収められたアンソロジーが出ているのを見かけて、僕自身はさほど興味がなかったのだけれど、この事実には感心したのを覚えている。もちろん松田先生だけではないにしても、教科書的に言って別の学派や思潮とされるようなアプローチや知見にも目くばせする方は貴重だ。逆に科学哲学や分析哲学の方が、現象学やドイツ観念論や中世哲学の勉強をしてる人が少ないのではあるまいか。イギリスの留学経験がある人でも、せいぜい古代ギリシアなどの古典を粗く学ぶていどのことだろうと思う。
さて、上の概説で述べられているとおり、mereology というのは全体と部分の関係を扱う。アプローチとしては、形而上学と論理学の二つが大別できて、もちろん両者は相互関係にある。特定の公理系を考案するには形而上学的な議論なり概念の整備が必要だし、それが「整備できていることになるかどうか」は、或る公理系がどういう性質や結果を許すかによって吟味されることが多いからだ。そして、全体と部分という相対的な関係は推移的に扱えるので、或るものの部分として扱われるものが、別の条件では全体として扱われることになる。
だが、さほど分析哲学でも真面目に研究する人が少ない(そして、現に僕も教科書的な理解を超えてまで勉強したわけでもない)という事実があり、その最大の理由は、そうした部分と全体の関係というものが、ただの特殊な条件をもつ集合論ではないのかという疑問があるからだろう。たとえば、mereology いわく、部分と全体との関係には、全体が部分の単なる集積にすぎない場合と、「有機的に」結びついた場合とがあるなどと言われることがある。だが、それは既存の単なる集積にすぎない集合を前提として、そこでの包含関係に別の特性を追加しただけの「拡張した公理系」でしかないように思える。上の論文でも、現代アートというものは文化の一部として、何か単独に扱えるようなものとして成立しているわけではなく、色々な経済活動や制度などとのかかわりをもって理解されたり分析されたり評価されるものだと言っているが、そんなことは当たり前である。いまでこそ、「文化社会学」だ、「芸術社会学」だ、文化の経済学だと特別なアプローチであるかのように言ったり、その手のタイトルを大きく掲げる本が出ていたりするが、そもそも文化の価値を単独に考えたり扱えるというのは、ただの視野狭窄でしかなく、学術的なアプローチの一つなどではないのだ。
ということなので、上のような論文がこの手の視野狭窄を退けるような効果を発揮する期待はできるものの、そういう指摘だけであれば「世の中はもっと複雑なのだ」とジジイに後ろから殴られているのと何が違うのかという気がする。