Scribble at 2024-11-21 07:59:46 Last modified: 2024-11-21 08:11:39
僕が書いている文章を読む人の中には、これってリベラルや左翼が言ってることと同じではないのかと訝しく思う人がいるだろうと思う。なのに、どうして「保守」なんて言ってるのか。これは、結論として現今のリベラルや左翼などが言っていることと似ていたり同じことを言っていようと、その根拠や動機や目的やスタンスが異なるからだ。簡単にそれを言うとすれば、「自律性」という言葉になるだろう。僕が人類史スケールの保守思想と言っているものは、要するに人としての自律性を守ることに要点がある。したがって、僕の基準で言えば優先度の低い利害関係や価値観に左右されないことが大切であって、それがリベラルであろうと通俗的な保守の発想であろうと、人類の永続してきた(まともと思える)習慣や考え方に反しているなら、何であれ斥けたり、簡単には受け入れないよう慎重に扱うことが望ましいと思う。
まずもって、そういう個人としての自律性を、生活でも、仕事でも、あるいは趣味や娯楽でも失わないためには、二つのスタンス守らなくてはならない。それは、自分の価値観を決めたり改善するための方法や基準や判断を継続して改善しようとすることであり、もう一つはそういうスタンスを他人に邪魔されないようにする、いわば社交術を身につけることだ。「社交術」なんて言うと下衆な響きがあるけれど、要するに人間関係をいたずらに損なうことなく、自分の有利な立場を築くことだ。先の落書きでも書いたようにしょせんこの国は人治国家であって、それを支える民衆もルールや価値観ではなく感情や人間関係でものごとを決める。逆に言えば、良し悪しは別としても、そういう連中の中で生きていくなら、そういう事実を前提に利用する方が有利であって、家族や仲間といった特別な間柄はともかく、しょせん他人との人間関係なんて自分が有利になるか不利になるかの問題でしかない。そして、「三方よし」だの「ノーブレス・オブリージェ」などというヌルい思想がもてはやされているように、「取り過ぎ」は憎まれるから、いわゆる社会への還元も必要だろう。
ともかく、大企業、国家、そして凡人共にいいようにやられたり、押し流されることだけは避けなくてはならない。僕がそうだとは言うつもりはないが、人智を押し拡げる才能をもっている者ならなおさら、些事や俗事に気を紛らわせるようなことは控えたほうがよい。でないと、いくら有利にことを運ぶために付き合いや人間関係を軽視できないとは言っても、そこへ埋没するとどうなるかは、だいたい物書きや大学教員などの末路を見ている人には膨大な実例があると分かるだろう。最近だと、何やら障害者のためのロボット工学みたいなことを言っていた落合某なんかも、ただのインチキ経営者か文化芸人、あるいは先進技術のセミナー講師風情に成り下がった感があるね。
ここで注意したいのは、こういうスタンスは僕のように最高学歴をもつ有能な人間だから必要なのではないし、あるいは善人や聖人君子は俗事に惑わされるなという話をしているわけでもない。あなたが中卒だろうと、あるいはこれから闇バイトへ行こうとしているクズ大学生だろうと、やるべきことは同じだと言いたい。なぜなら、僕がもともと理解している「哲学(philosophizing)」とは、そういうもののことだからだ。当サイトで、ヤクザの事務所で哲学することの意義を説得できないような人は大学で哲学を教える資格なんてないと書いているのは、わざと極論を掲げて哲学教員の資格というハードルを不当に引き上げているわけではない。誰が相手であろうと対処できるような、それこそ普遍的な態度を身につけることも哲学者の資質に入るからだ。東大で洋書を山のように読んでいるような人間とか、未熟なままの人間にだけ売れる本をたくさん書いて長野に書庫を兼ねた別荘を建ててる元ゲーム作家だが SE の物書きは、確かに僕らの時代の「成功事例」かもしれないが、われわれ哲学者からすればカスみたいなものだ。おまえたちがどれほど大学で偉くなったり、岩波書店から著作集を刊行してもらったり、著書の帯に「新進気鋭」だの「知の巨人」だのと書かれようと、あるいは豪勢な家を建てようと、われわれ哲学者には何の関係もないことだ。眼の前にいるテロリストの子供一人を相手に、爆弾を抱えてどこかのレストランへ駆け込もうとするのをやめさせることができないような人間に、本来は哲学を教えるだの解説するだのという資格はないのである。
したがって、誰であろうとこのような保守的なスタンスはとれるし推奨できる。そこでは、利用し、利用されるなという要点を語ることになるが、別にハードボイルドの安物小説みたいな話をしたいわけではない。実際、僕が勧めたいこと、そして僕自身が少しずつ実行しているのは、そんなに大袈裟なことでもない。たとえば、僕は平日は間食しないようにしているのだが、これなどは不必要に菓子類を購入したり食べて、これほど大規模な産業になる必要もないと思えるスイーツ産業が拡大するのはよくないと思うからだ。確かに、僕自身の健康にも関わりはあるが、しょせん菓子類なんて本当のところ人類の生活(「豊かな」という条件までつけたとして)にとって必要かどうかも定かではないようなものなのに、これを産業として発展させてきたのは、果たしてわれわれ自身の自律性にとって有益なのだろうか。僕ら凡人が菓子類を食べるなんてことは、およそ戦後になってからの話であろう。それまでは、そもそも大多数の平民なんて間食どころか餓死するような集落もあったくらいであり、これはこれで民衆すら食うに困らなくなったという意味で社会が豊かになった遅延指数としては理解できるが、だからといって決して必須のものではなかろう。