Scribble at 2021-10-28 09:56:18 Last modified: 2021-10-30 09:18:01

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昨日の夜半前に落札となって、深夜の1時頃に送付先を登録したり銀行振り込みしていたのだが、鹿持雅澄の『新訓 山斎集』上・下巻(吉田清次・堀見矩浩/編、鹿持雅澄家集景仰会、1991)をヤフオクで BOOK OFF から安く手に入れた。「日本の古本屋」というサイトだと、商品の状態は同じ程度かどうか分からないものの、上・下巻で2,750円(送料520円以上)とあるから、僕がヤフオクで落札した商品の送料も含めた費用1,697円の倍くらいなので、もちろん2,750円でも安いことに変わりはないが、ともかく相当に安く手に入れられたのは良かった。もちろん、実物を手にとっていないし、ヤフオクに掲載されている写真は中身を撮影していないから、届いた商品の状態が非常に悪いという可能性はある。しかし、落丁・乱丁、あるいは判読できないくらいの傷みや書き込みや虫食いなどがなければ、商品として出しているものなのだから、それなりに BOOK OFF として出品するだけの品質は確保されているとは思う。これが個人のセドラーや出品者だと分からないので、今後も利用するなら、やはり BOOK OFF を始めとする専業の古物商事業者から買うことになるだろう。(これも、もちろん常々ここで書いている「リスク対策としての権威主義」の一つだ。ただ、この場合は僕がセドラーや個人の出品者を信頼できるようになるための実績を、彼らの方からは作りようがないという重大な問題がある。)

しかし、前の落書きで述べたように、僕は国文学の専攻でもなければ鹿持雅澄の研究者でもなく、いやそれどころか『万葉集』(著名な文学作品や資料は書籍のタイトルだとしても二重括弧で括らない風習があるけれど、僕には少し違和感がある)に興味すらあまりない。いくらなんでも、例えば吉川弘文館から出ている『万葉集古義』全10巻(9巻+首巻)を買おうとは思わない。よって、鹿持雅澄という人物の何かについて関心があるというだけで、彼の関わっていた事柄の全てについて調べたり知ったり考える必要があるとは思っていない。でも、それは別に悪いことでもなければ、何事かにアプローチするにあたっての欠格事項ではないだろう。それは、ちょうど僕の高校時代からの親友である二人の人物について、当時の僕が彼らの関心事(女の子を追いかけることと左翼運動とか)に興味がなくても何の問題もなかったのと同じような、ごくありふれたことだからだ。その逆に、関心をもっている人物のありとあらゆることを知ったり、その人物の思考の筋道や経験を自分自身でエミュレートでもできなければ、その人物の「全体像」とやらを把握できないので駄目だなどと強迫観念に囚われている人文系の研究者を眺めていると、昔から或る種の違和感を覚える。哲学で言えば、プラトンやアクィナスやデカルトやヒュームやウィトゲンシュタインやレヴィナスやデリダといった人々の祖述をやっている人々の中に多くいる、まるで古典の著者自身と〈一体化〉なり『ドラゴンボール』の「フュージョン」でもしたがっているかのような、簡単に言えばキモい人々(とりわけバカのひとつ覚えみたいに「身体」というキーワードを振り回しては、フッセルと〈ひとつになりたい〉かのようなたわごとを叫んでいる肉体フェチの連中)のことだ。

ありていに言って、誰のことであれ他人が「全て」を厳密かつ正確に同じ条件で追体験するなどということは、まず第一に時空の厳密に同一の位置に当該人物と他人という複数の物体が存在すること自体が不可能なのだから物理的に不可能であり、第二に或る人物の経験を全て同じ条件で体験するのは当該の人物以外にはないので他人にできると想定することは論理的に矛盾しており、そして第三に当該人物の完全な記録など存在しないし「完全さ」の基準がないのだから、実際にはオウムや九官鳥のように頭の中や口先で言葉として「チョシャノゼンタイゾウノハアク」(著者の全体像の把握)と発話できても、何をもって同じ経験だと判断するかの基準がなく、思い込みやファンタジーや観念としてはありえても、概念としては成立しないであろう。

かようにして、鹿持雅澄のあらゆることを知っていたり考えなくても人となりや事績の一部に関心があれば良いと思うのだが、もちろんそれゆえに、何を評価するにしても一部を以て判断しているだけだという自覚や節度は必要である。人文系に多くいる〈思想的なすっとこどっこい〉の連中とは異なり、自分が或る人物の全体像をつかみたいと願っているだけのことで知的な傲慢さの言い訳や正当化になるわけではないと弁えることが、哲学する者としてのまともな礼節というものだろう。われわれは、歴史的な事実の全てを手にすることはできないし、手にできても正しく理解して活用できるとは限らないという、客観的な限界なり不完全さと、主観的な限界なり無能さとを将来にわたっても抱えて、生きるなり学術を営むしかないのである。

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