Scribble at 2026-01-02 09:58:40 Last modified: unmodified
この手の話は、やはり第一印象として自己反駁的に思えてしまうんだよね。というか、イリイチあるいは彼のエピゴーネンが書いている(たいていはアホみたいに分厚いだけの)本を読まなくても感じる第一印象にしたって、何十年が経過しても同じままだ。僕が山本哲士氏の巨大な本を書店で見かけたのは二十代の頃だったと思うが、やはりいまでも失礼ながら手に取る気がしない。その理由は、きわめて簡単に言えば、誰もが自律的に自立できるわけではないからだ。そんなことをする動機があって、時間や精神的な余裕もあるのは、なんだかんだ言っても彼らのようなプロパーを始めとする専門家であり、そうする金や時間がある好事家や社会運動家という「プロ市民」であり、いまで言えば「独立研究者」などと呼ばれている出版ゴロだけだ。そして、これは何も昔ながらの右翼などが口にしてきた「庶民の本音」だとか反知性主義ではなく、実際に専門家の抑圧から自由になれと称する人々の大半こそが、スティーヴン・ピンカーを始めとする Oxcam やアイビー・リーグの権威筋や物書きだったり、ナオミ・クラインなどを始めとする左翼活動家や社会運動家や宗教家にすぎないという事実があっての話である。要するに、専門家や権威から自由になれない人々が YouTube の動画を観たり本を買うからこそポジションを確保し、そして食っていけてるような人々なのである。
そもそも、たいていの人には社会や世界に対して物申すような動機や目的や主張などない。そういうものが「ある」とか「あるべき」と言っていること自体が、彼ら左翼思想家の思い込みであり、脅迫である。保守の思想家として、僕はそういうものが人の生活や生き方を支える基本だとは思っていない。もちろん、権威や権力に黙って従うことが「自然」だとか「当然」だとか、いや「必然」だと言っているわけではなく、場合によって、あるいは自分自身の生活において生じた脈絡によっては、そうした権力や権威を疑い、そして挿げ替えるだけの力を持っているべきだろう。だが、そのために東京大学へ入る必要があるとは思わないし、博士号を授与された方がいいわけでもない。あるいは、どこかのカルチャー・スクールや喫茶店にでも入り浸るか、ドゥルーズや現象学や分析哲学を読みかじった小僧たちが主催するセミナーやイベントに参加する必要があるとも思わない。そんなことをしなくても済む仕組みをどうやって手にするかが、保守の思想家として僕らが考えている課題であり、そういう仕組みの構築や提案や達成を誰か特定の「思想的なヒーロー」に期待したり委ねるのでは、社会運動家の言っていることと同じでしかないという自覚はある。