2018年06月07日に初出の投稿

Last modified: 2018-06-07

「ちょうど何年」というのは、大体において人の物事の受け止め方が本人や他人の判断や行動に強い影響を与えたと立証できない限りは、自然現象として何の意味も無い記述である。この宇宙の法則なり現象が、たかだか瑣末なサルにすぎないヒトの決めた「1年」とか「1日」などという単位で成立していたり生じたりする根拠など全くないし、在る方がおかしい。もちろん、それゆえ逆に、どういう単位を基準にしてもよいと言える。Mathematical applicability とか「数学の不条理な有効性」(ウィグナー)と呼ばれる特徴は、このような数学の力によるのだろう。そういうわけで、意味があろうとなかろうと勝手に「明治150年」などと言っては騒ぐ人々が出てくるのも、無理からぬことだと思われる。

2018年は、もちろん僕自身が50歳となるので知っていることだが、1968年というマスコミやクソ左翼が大好きな年からちょうど50年にあたる。僕は、この年が何らかのターミングポイントだというなら、それは少なくとも僕自身にとっては自分が生まれた年であるということくらいしか言いようが無い(笑)。もちろん、そんな瑣末な事実(もちろん事実の一つには違いないが)が河本家のスケールを越える範囲でのターニングポイントだなどと豪語するほど僕はアホではない。

しかし暇であれば、関連する年に起きた出来事を振り返るのも悪くない。たとえば1918年を振り返ると、実は毎年、どの年でも「ちょうど100年前」や「ちょうど50年前」はあるのだから、こうして毎年のように振り返ってもいいのだろう。そして歴史に学ぶ意義を理解しているなら、振り返ってばかりいるのも愚かだが、毎年こうして振り返るための行事を「家訓」のようなものとして残しても良いはずである。こういう、堅苦しい決まりごとを残さずして人類が存続できる可能性は、たぶんない。後に生まれた人間が常に世の中を良くするクリエーティブをもたらすと夢想したり、過去に学ぶことなく常に誤りの無い未来を選択できるなどというファンタジーにコミットするのは、それこそ将来の自分達の子孫に責任を追う覚悟も無い子供だけだからだ。

1918年の出来事を振り返ると、もちろん昨年からプチブームで関連する出版物が世に現れているように、1918年は第一次世界大戦が終結した年である。日本ではトヨタ紡績や松下電気器具製作所が誕生し、政党内閣が成立し、森永のミルクチョコレー・・・いや、これはいいか。スペイン風邪が流行したのも、この年のようだ。生まれた人物として、リチャード・ファインマン、田中角栄、安田老人(性風俗研究家)、中曽根康弘、近江俊郎、ネルソン・マンデラ、レナード・バーンスタイン、ヘルマン・ツアップ(書体のデザイナー)、福井謙一、ルイ・アルチュセール、いわさきちひろ(画家)、ヘルムート・シュミットという。

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