2021年07月20日に初出の投稿

Last modified: 2021-07-23

添付画像

東京五輪開閉会式の制作メンバーに作曲家として名を連ねている小山田圭吾氏(52)が過去のいじめ問題でSNSやインターネット上で炎上する中、批評家の東浩紀氏(50)は、「大昔の発言や行動記録を掘り出してネットで超法規的にリンチするのはよくない」との考えを示した。

批評家の東浩紀氏「超法規的リンチよくない」小山田圭吾の過去いじめ問題で [※上記の画像は別の人物のツイートです]

[おことわり]

敬称について。学術的な文章でなら敬称を省くのは標準的な書き方なのだが、ここで公表しているようなエッセイやコメントでは、人名に「さん」とか「氏」という、はっきり言って中途半端な敬称を付けることが多い。僕も呼び捨てるのはどうかと思って敬称を使ってきたのだが、正直なところ敬称を付けたいとも思わない事実上の犯罪者とか、哲学者としてどころか思想家としてすら(ついでに言えば経営者としても)ぜんぜん評価してない人間に敬称を付ける必要は、やっぱり感じない。なので、本日から〈僕が必要を感じない限り〉人名に敬称は付けないこととする。

[本文]

小山田圭吾が東京オリンピックに関わることを辞任したのは昨日(7/19)のことだったが、既に先週から炎上していたらしく、それゆえ上記の記事が辞任よりも先に出ていたという奇妙な印象を受けた。何にせよ、既に東浩紀自身の過去の発言についても上記の添付画像のように(別の人物のツイートだが)掘り起こされて、彼も更に批判されているのを見ても分かるとおり(別の証言を調べると、更に悪いことに、過去に東浩紀は全く同じ小山田の発言について許し難いと酷評していたという)、過去に馬鹿げた発言をしたり矛盾した評価を与えていれば、当然のことだが幾らでも指摘され難詰されるのは、言論をもって金を稼いでいる人間としてもつべき責任というものだろう。

今回の事案についてどう論じるべきか、論点は幾つもある。

最初に disclosure として書いておくと、僕も小学校の高学年で同級生を虐めていた一人であった。恥ずべきことをしたのは明らかで、本人には申し訳なく思っている。それについて詳しくは書かないし、本稿は僕の愚行について弁明したり謝罪することが趣旨ではない。いずれにせよ、そういう事情があるため、虐めていた経験のある人間としてのバイアスがかかって物事を過小評価したり、あるいは贖罪のような動機で逆に物事を過大評価していないかどうかは、自分でも吟味しながら書いているつもりではある。

さて、僕は東浩紀のような日本の出版・マスコミ業界ていどを舞台にしてものを書いている自称思想家とは次元の違う哲学者なので、もう少し物事の原則や根拠という根っこに近いところで問いを立ててみたい。つまり、今回の炎上なり出来事の推移が東の言う「超法規的リンチ」なるもの(外来語だとカジュアルで過小評価するニュアンスがあるからか、敢えて使わないようだが、海外では "cancel culture" という流行語になっている)だとして、それが多くの事案で様々な理由によって人が社会的地位を追われる手法として定着し、簡単に言えば一斉に芸能人や政治家や企業経営者、もちろん大学教授などが排斥されたとして、それでいったい何の不都合があるのだろうか? 彼らは自分自身で何か妄想を肥大化させた上で、かような手法が普及し常態化することに危惧を抱いているらしいが、それは彼らにとってどんな〈忌避すべき社会〉なのか。「社会」についてだから、東浩紀でなくとも、名前を何と言ったか忘れたがモヤシ面のお坊ちゃん社会学者に問うてもいい。

実は、それで排除した面々の代わりなんて幾らでもいるだろう。吉本芸人がヤクザや犯罪者の余興に参加していたという一件で一斉に処分された場合でも、それでしょーもない(残った芸人の大半もしょーもない連中だが)芸人の多くがテレビや舞台からいなくなって、いったい日本の「お笑い文化」とやらに何の影響があったのか。それとも、昔から上岡龍太郎などが冗談半分で言っていたように、そういう人々を芸能や政治などの業界から放り出すとヤクザか風俗嬢にでもなるしかなくなるがゆえに、一種の隔離策や社会防衛として芸能や政治といった職業に押し込んでいるのだろうか。

しばしば、公衆で起きることを無軌道で節操がなく世の中を悪くするものだと最初から断じて批評する場合があって、確かにロベスピエールやヒトラーやトランプを生み出して支持したのは噴き上がりの凡人たちであった。それゆえ、「社会」がどうなるかも知らず、また関心も責任もないであろう人々が噴き上がって生じる騒動に、少なくとも大学を出ているていどの人々である日本の批評家や物書きが何らかの懸念を覚えるのも理解はできる。しかし、彼らがこれまた昔から直接だろうと間接だろうと「社会」を改善するなり変えるための拠り所として期待してきたのも、こうした一般大衆の言動ではないのか。「社会改革の行動を期待する、#ただしイケメンにかぎる」などと身勝手な条件をつけて都合よく人々が行動してくれるという、未熟な理解や想定で天下国家を考えたり発言することこそ、アジテーターのように確信して煽っているか、煽っている自分自身に陶酔しているならともかく(もちろん弁護したいわけではない)、思想を語る者として愚かな態度だと言うべきである。よって、同じことだが都合のよいことだけ世の中や大衆に期待するわけにもいかず、それではいったい君らは何のために大学で教えたりものを書いているのかと言いたい。

次に小山田圭吾が通った和光系列の学校について書いておくと、和光系列の学校は特に和光大学が関東では有名な左翼大学だ。そして、これまでの歴史を簡単に見ても分かるとおり、左翼というのは気軽に格差をなくすだの平等だのと口にしてはいても、実際には中国でも旧ソ連でも、そして何度か書いていることだが、日本と呼ばれる事実上の社会主義国でも、社会階層や階級制度に依存してしか自分たちの地位や体制を維持できない。このような欺瞞が、彼らの事績を理解するにも批評するにも、古くからまともなレベルの思想家にとっては最大のポイントであった。これを「ジレンマ」などと言って、当人たちがまるで実情について躊躇したり悩んでいるかのような善意の解釈をする牧歌的な時代はとっくに過ぎ去り、既に半世紀以上も前から「システム」という用語が社会科学に登場してからというもの、システムが国家のように大規模となればなるほど、システムに取り込まれた人々の無為無頓着は促進され、価値判断を経ずに目の前の「実務」をこなして物事の善し悪しというステップをスポイルすることが健全な態度であるかのように求められるという理解が社会科学では常識となっている。僕が常々、そのような人々への侮蔑として使うのが「サラリーマン(男女にかかわらず)」という言葉だ。

もちろん、Twitter で噴き上がっている多くの人々についても、個々の場面で脈絡や経緯を丁寧に理解した上で判断することなく、手当り次第に著名人を扱き下ろす侮蔑的な言葉を書いて公表することだけに快感を求めているのかもしれない。それはそれで、当人の表面的な反省を越えた何かを促すことにも寄与しないだろうし、「世の中」なるものを向上することにも寄与しない可能性がある。したがって、たいていの人間には何らかの恥ずべき経験や実績があると言えなくもない限り、冒頭で問うたような無制限の cancel culture を実行すれば、もしかすると芸能界にアイドルや俳優は一人もいなくなる可能性があるし、政治家は当然のように全員が消えていなくなるだろう(維新はもちろん、共産党や公明党であろうと)。しかしそれでも、それがそれ自体で〈由々しき事態〉であり、それを招来する徹底的な cancel culture が悪質な偽善行為であると言いうる根拠にはなっていない。芸能界から人がいなくなって、何が悪いのか。上場企業の役員が一斉に排斥されると(もちろん経済活動に大きなインパクトがあるのは確かだろうが)、それで日本の経済が確実に〈悪く〉なると論証できるのだろうか。あるいは、もしかして東浩紀やモヤシにーちゃんを始めとする大学教授の多くが過去の愚かな発言や振る舞いによって排斥されたとして、それで日本の〈知〉とやらにとって致命的な影響があるのか。

一つの可能性として、もちろん代わりが全くいないという想定はできる。排除した代わりのアイドルとして外見などが適当に見繕われた若者なんて掃いて捨てるくらいいるとは思うが(僕も35年くらい前ならモデルにはなれた自信があるし、実際に街頭で立っていると撮影している最中であるかのように間違われて、周囲を避けるように歩く人がいたりしたものだ)、過去に何の落ち度もない容姿端麗な若者なんていないかもしれない。すると、芸能という産業の或る部門は人材が完全に枯渇してしまい、商業的に成立しなくなる。ジャニーズだろうとホリプロだろうと消失して、テレビ局は番組の編制を大きく再考し、広告代理店は若い客層に訴える〈道具〉を他に見つけなくてはならない。しかし、それで世の中の何が〈悪化〉すると想定できるのか、いまいち僕には分からない。たとえば潔癖症がすぎると、逆に自然界に最初からいる細菌などに免疫を作るチャンスがなくなり、抵抗力がなくなって病気に弱い人になるといった議論は昔からある。ここからの単純な類推で、過去の愚行を些細なことでも徹底的に排除してゆくと、悪事に対処する免疫がなくなって「社会」が弱くなると言いたいのだろうか。

上記のような議論には一理ある。差別について前に書いたように、人は誰しも差別してしまうリスクを抱えている。それは被差別の側の人々についても同じであり、アメリカの黒人は韓国人に差別を理由とする危害を加えたことがあるし、同じ黒人どうしでも肌の濃さで黒人が黒人を差別する "Brown Paper Bag Test" があり、他の多くの国でも被差別の側にいるという理由で他の人々を寄せ付けずに排除した事例が古来から幾らでもある。また、同じ境遇でも貧富や教育や何らかの能力といった別の尺度でお互いを差別している実態なんて数え上げられないだろう。よって、そういうリスクが実際に何らかの言動に現れることは誰でもありうるのだから、そのたびに社会的地位や職を剥奪していては、やがてあらゆる産業や社会活動を担う人がいられなくなってしまうかもしれない。重要なのは、誰しも(もちろん僕も!)人は間違うという見識から出発して、間違ったときにどうリカバーするかだ。差別感情だけに限らず情報セキュリティでも同じく、何か重大な過ちが引き起こされたときに、原理原則から考えてどう評価し対処するのが〈正しい〉のかを弁えておくことが必要である。そして、その上で〈正しい〉と思える判断から対処しているなら、事の大きさによっては今回のようにオリンピックという国家的規模での事業からは排除せざるを得ないが、芸能界からも活動の場を奪うほどの制裁は全ての芸能人に求めなくてもいいかもしれない(小山田については、あれは無理だ)。

よって、cancel culture を始めとする社会的な制裁のチャンスを維持することは、それまで言おうとしても言う機会がなかったのかもしれない人々がいると想定できる以上、賛同すべきことだと思う。ただし、それによって受けるべき制裁には、やはり限度というものがあってしかるべきだし、それを越えていらずらに一定の職務からだけでなく職業や社会的な地位の全てを奪わんとするような言動は、それが法的な根拠を欠いているならなおさら、非難されている側からの抗弁によって排除するのが妥当だろう。そうした思惑なり価値判断の衝突が起きるのは当然のことであって、お互いにそこで自分の判断を突き合わせる覚悟なり努力をしない限り、恐らく明治時代からこのかた多くのインテリや物書きが世の中に求めてきた「個人主義」や「民主主義」は機能も実現もしないと思う。

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