Scribble at 2022-04-24 18:52:35 Last modified: 2022-04-24 19:19:08

ここ数日、というかここ数年は定期的に話題となるのだが、Dunning-Kruger effect の成否に関する議論を追いかけている。これはいったん当サイトでも論説としてまとめておきたい話だ。

昔から態度としてはクリティカル・シンキングや自己啓発でお馴染みの「何とか効果」だの「何とかバイアス」の類を馬鹿にしてきたし、こんなものを哲学科で教えるのは時間の無駄だし無益だし有害ですらありうると言ってきた。クリシンの通俗書や「京大式」の思考法、あるいはサラリーマンが手にする「問題解決法」といったクズみたいな本を読むだけで、学者と同じレベルとまではいかなくても理性的にふるまえるなどという魔法はありえない。もしそんな手軽な道具があったとしても、まさしくのび太に四次元ポケットを与えるようなものだ。幾つかの道具を手にするだけで理知的な議論や的確な推論などできるわけがないという、いたって常識的で大人として当たり前の態度を、哲学に関心をもっている諸君には期待するものである。

哲学するとか、少なくとも哲学とはどういうことかを学ぶということは、他人の揚げ足を取ることでもなければ、マウンティングと呼ばれる口先競争で相手を論破することでもない。それこそ、そんなことのために哲学を若者へ教えたりたぶらかしたと非難されて(おそらく事実ではないににも関わらず、敢えて自ら死を望んで)毒盃をあおった人物を、哲学の歴史について何か一冊でも読んだのであれば、いくら読書で哲学がわかると期待するような馬鹿でも、それが誰なのかを知っているだろう。

ちなみに僕はその人物を哲学者として尊敬しているわけではないし、哲学者であるかどうかも判断しかねる。結局、哲学するとはこういう話題について考える途上に起きる何かであり、〈果てにある〉何かでもなければ、最初から大学教員や出版社がどこかに準備してくれる何かでもないのだ。こういう説明の意味合いが全く分からないのであれば、悪いことは言わないから「哲学」と書いてある本を読むのはいったんやめて、自分が自らの人生において為すべきことを自分で考えて即座に実行してみるべきである。マックス・テグマークという物理学者の有名なフレーズを転用させてもらうなら、shut a book and live と言いたい。その途上に再び何事か執拗かつ厳密かつ丁寧に考えたい場合は、もしかすると哲学と呼ばれる何事かにかかわる機会があるかもしれないが、それは実際のところ自然でも当然でもない、たまたまとしか言いようがない経緯によるかもしれない。

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