2018年08月08日に初出の投稿

Last modified: 2018-08-08

哲学は、古代のギリシャにおいて、アルケー、すなわち万物の根源は何かという問いから始まった。哲学としてのシステム論の結論は、世界がそこから立ち現れ、哲学がそこから始まるところのアルケーとは、不確定性であるというものだ。アルケーが、あれやこれやの要素であるとか、基体=意識主体であるとかいった従来の哲学者たちの主張は、本来のアルケーの忘却から生じる。不確定性は、時間的にも、理論的にも、すべてに先立つのである。

哲学は何から始まるのか

筋というか哲学について語る脈絡の設定の仕方は正しいと思う。だけれど、システム論なるものによってしか言えないことなのではない。これはハイデガーの「企投」や「被投性」と同じように、われわれが逃れられない所与や運命を背負っていると言ってるのと同じである。それらも、既に自分自身の経験としては忘却しているという点で不確定だし、われわれが存在しているこの世界の所与についても、われわれは既に与えられている何かとして考えざるを得ないからだ。僕が普段から「人は誰であれ有限な能力しかない凡庸な個体である」と言う場合のニュアンスも同じであって、そういう制約に置かれた存在者である他はないという事実を自分自身が明確に把握することから始まるのが哲学だと思う。そして、たとえばデカルトの "Cogito, ergo sum" やウィトゲンシュタインの "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen" なども、そのような把握を表明している言葉だからこそ哲学としての古典的な地位を得るにふさわしい一節なのだろう。

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