Scribble at 2018-08-08 11:16:17 Last modified: 2022-09-28 09:32:09
筋というか哲学について語る脈絡の設定の仕方は正しいと思う。だけれど、そういうことは「システム論」なるものによってしか言えないことなのではない。これはハイデガーの「企投」や「被投性」と同じように、本質的に不確定であろうとなかろうと、われわれが逃れられない所与や運命を背負っていると言ってるのと同じである。それらも、既に自分自身の経験としては忘却しているという点で不確定だし、われわれが存在しているこの世界の所与についても、われわれは既に与えられている何かとして考えざるを得ないからだ。僕が普段から「人は誰であれ有限な能力しかない凡庸な個体である」と言う場合のニュアンスも同じであって、そういう制約に置かれた存在者である他はないという事実を自分自身が明確に把握(しようと)することから始まるのが哲学だと思う。そして、たとえばデカルトの "Cogito, ergo sum" やウィトゲンシュタインの "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen" なども、そのような把握を表明している言葉だからこそ、哲学としての古典的な地位を得るにふさわしい一節なのだろう。