2019年10月17日に初出の投稿

Last modified: 2019-10-17

さきほど帰宅する途中で、京阪天満橋の駅前にあるスクランブル交差点を渡るときにも、渡ろうとする人の前を一方の側だけを見て駆け抜けていく自転車があった。反対側は立ち止まって自分を通してくれるものと思い込んでいるのかもしれないが、もし歩行者も違う方向に注意していたり、昨今はよくあるように携帯を眺めながら歩き出していたら、この自転車と歩行者が衝突していた可能性もある。

あらためて僕が当サイトで提唱している歩行論というものを「サバイバル」として説明しているのは、こういう理由がある。もちろん、人の目の前を放埓に自転車で駆け抜けていく人間に悪意はない。しかし、それだからこそ社会科学的にも生理学的にも殆ど矯正は不可能なのだ。彼らには自分がどれほど危険なことをしているのか自覚がないし、この世は道徳や倫理に都合よく推移するわけではないので、そういう人間が車に轢かれたり衝突して社会正義を実現するよう《淘汰》されるわけでもない。また、そうした行為は《人間性》のような実体に還元したり固定して議論できるような、一貫していて強固な特徴でもないため、「ああいう人間のクズ」という集合に一人ずつ他人を押し込んで排除していっても(差別と同じ思考になってしまうということだけでなく)切りがないのだ。実際、こういうことを言いながらも僕だって何かのタイミングで同じことをして、これから歩き出そうとする誰かの前に立ちはだかって歩き出すような振る舞いをしている可能性だってあるのだ。

つまり、当人に自覚がないという点でも矯正は困難だし、このように危険だったり無礼なふるまいというものは人が常にやる生理的な反射のようなものとは異なる可能性があるため、個々の状況では別のふるまい方をするかもしれず、どうすればそうならないかを当人として反省することも難しい。よって、このようなリスクを効果的に低減するには、弱い立場である歩行者の側、あるいは歩行者どうしの場合は無礼者の横柄なふるまいを見て取って対応することを考える側が、サバイバルとして対抗手段を講じて実践する他はないのだ。冒頭のスクランブル交差点の場合は、歩き出す前に前後左右から一時停止することも考えずに交差点へ好き勝手な方向から突っ込んでくる糞どもがいないかどうかを確認して歩き出す他にはないのである。

そもそも、そんなふるまいを常にではなくとも平気でするような手合いが相手にケガをさせたとして、賠償金を払えるような立場の人間である可能性は低い。そして、絶対に心へ留めておくべきなのは、そういう連中に悪意があろうとなかろうと、自転車とぶつかれば人は死ぬことがあるということだ。無頓着に走行する自転車とぶつかったというだけの原因で死ぬのは絶対に避けなくてはいけない。それは何も、僕やあなたが至高の存在として人類の未来を担っている尊い人間だからではなく、少なくとも自分自身や家族にとって自分は大切な存在だろうからだ。これは、大阪のような土地に生活して往来を歩く人間にとっては、そろそろ真面目に考えるべきことであり、既に海外では safety for the pedestrian という観点は都市生活を向上させる一つの目標として重視されている。

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