Scribble at 2023-06-25 13:49:32 Last modified: 2023-06-25 14:55:36

ChatGPT(Microsoft Edge)に対して、認識的不正義は社会科学の問題であって、倫理学で議論するようなことなのかと尋ねてみたら、「哲学で認識的不正義を議論する意義は、社会における知識の生産、獲得、伝達、拡散における知識の主体として私たちが不当に扱われる不正義に目を向けることです」という、何か煙に巻かれているような回答を得た。もちろん、哲学者が議論して悪いわけはないのだが、哲学の議論として取り上げるからには、特定のイデオロギーとかフェミニストのムーブメントとか、そういう小文字の政治に引っ張られるような脈絡で入っていったのでは、しょせん好事家がいい人ぶって社会の課題にも取り組んでいますというポーズにしかならないと思う。

なんと言っても、既存の哲学には身体障害者の学習を最初から排除しているという、決定的かつ致命的な不正義があると言ってもいいのだ。そこを無視して、LGBTQ だ黒人だ生活保護だ部落だ在日だ、そして認識的不正義だと最新の流行語を振り回してみたところで、日本の左翼か社会学者のレベルと同じだろう。それこそ55年体制の社会党と同じであり、空疎で無効な文句を言い続けて不当な状況が永続することによって、彼らが大学や出版業界で食べ続けていけるという皮肉な構図ができあがるのだ。同じことはゲーム理論の精緻な議論すら学ぶことなくトロッコ問題を延々とお喋りしている(生命)倫理学者にも言えるだろう。

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