Scribble at 2023-02-15 20:05:20 Last modified: 2023-02-16 09:37:40

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2019年頃に /trident というディレクトリ配下で FreeBSD のコンテンツを紹介していたのだが、これを改めて再構成して公開することにした。まず、FreeBSD どころか UNIX というオペレーティング・システムの解説が乏しいし、パワー・ユーザ面でコメントだけ書いてるようなロートルどもに限って有益なドキュメントを何にも書こうとしないため(いまさら UNIX を使えるていどに既得権益などあるまい)、僕は FreeBSD のカジュアル・ユーザだし、かつては黒木掲示板で「UNIX 系の人たち」と言って閉鎖的なオタクどもだと断罪した経歴もあるため、あまり偉そうなことは言えないわけだが、それこそ UNIX 系の人たちの精神として現状に不足や不満があるなら自分で解決できる範囲でやれることをやろうと思う。そして、そういう方針をもってコンテンツの構成を検討し、当サイトでは "Life with FreeBSD" というコンセプトでコンテンツを制作し公開することとした。[だが下の追記で述べているように、これは考え直して取り止めた。]

そもそも OS どころかコンピュータを暇潰しや趣味的な玩具としてだけ弄繰り回すような時代は、既に過ぎ去っている。一部のマニアのホビーとしてコンピュータを買って使っていた時代のスタンスとして、生活や仕事と関係のない脈絡や目的でコンピュータや OS やシェルの解説など書いたところで、大半の人々には関係のない話だし興味もないだろう。もちろん、当サイトのコンテンツであるからして、僕はコンピュータや OS やシステム開発に何の関心も素養もない人間を相手に通俗的な文章を書くわけもないのだが、それでも一定の素養と関心と事情さえあれば UNIX なり FreeBSD について知ろうとしたり、これを使って仕事や生活に役立てたいという方々に資するコンテンツになれば十分である。お父さんお母さんが FreeBSD でプログラミングして家計簿を管理して何がいけないのかというわけである。コンピュータや UNIX やインターネットは、なにも東大やマッキンゼーや都銀を出たガキが都内の金融関係者から適当なポートフォリオで巨大な資金を融通してもらい、中身からっぽのベンチャーを立ち上げて豪遊するための道具ではない。

ということで、自然なこととして想定する素養とか環境とか関心などは、僕が想像する範囲に限られる。僕が軽視し無視する事情で読む者のことなど露程も考慮しない(適当な企画書で「DXベンチャー」を立ち上げたら、上場企業のクルクルパーの投資担当者から第三者増資割当で巨額のお小遣いをもらって、官僚どもの接待がてら芸能人の卵と乱交パーティーだ!)。

[追記:翌日] ・・・という勢いでいたのだが、改めて調べなおしてみると、公式のハンドブックも最新版まで整備されているし(日本版の FreeBSD コミュニティ・サイトは放置のようだが)、初心者向けのドキュメントは色々と書かれているようで、それほど心配するほどのことでもなさそうだ。ただ、日本によくあることだが、大半の記事がインストールまでしか書かれていなくて、本当にあんたら仕事や生活や趣味にすら FreeBSD を使ってるのかねという印象が拭えない。記事を書いてロング・テールのアクセスを集めるために、マイナーな OS を選んでるだけじゃないのか?

考えてもみれば、生活や仕事の道具として OS を使うのであれば、まず生活に必要なコンピューティングの環境は OS にこだわる必要などない。要はコンピュータで何ができるかが問題なのであって、多くの方にしてみれば GUI 環境でブラウザが使えたらいいということになりがちだ。そして、それの何がいけないのかというのも道理である。そして仕事として考えたら、そもそも OS を選べるなんて限られた一部の人間だけの話であり、僕らのようにサーバ会社や OS を好きに選んでウェブ・サーバを構築したり運用できる案件など、いくらでもあるというわけではない。たいていの新卒や中途採用者にマシンのスペックや OS を選ぶ人権などあっては困る(弊社でも、たかが新人が macOS しか使えないから Mac を買ってくれなどと、どの口で言うのかという気がずっとしている。最低でも Windows と macOS のどちらでも Adobe の製品くらい使えるのがネット・ベンチャーの社員として働くための「コア・コンピタンシー」というものではないだろうか)。したがって、僕のような専従のエンジニアでもない人間ですら RedHat, Debian, Solaris, FreeBSD といった各種の系列の UNIX や GNU Linux を使ってきた経緯があり、いまさら特定の OS についてだけ、自分が好きだからといって屋上に屋根をかけるような記事を書くまでもあるまい。少なくとも、いまなら公式のハンドブックを読めと言えば済むていどにドキュメントは充実していると思う。

あと、FreeBSD を使わなくなった方が記事を書いていて同感だったのだが、いまや大半の業務や生活の道具として、Linux の各ディストリビューションと UNIX のメジャーな後継 OS とでは、殆ど違いがなくなっている。Linux のディストリビューションでも、せいぜいソフトウェア管理手法が apt なのか dnf なのかといった違いや、ファイル・システム(ディレクトリ構造)や設定ファイルのパスの違い、それからデーモンを管理する仕組みの違いといった重要なポイントを押さえておけば、新しい系統のディストリビューションなんて数日で使えるようになる。Debian 系統の OS しか使ったことがないユーザでも、数日で RedHat を使えるだろうし、同じことは UNIX にも言えるだろう。それだけ、それぞれの OS が洗練されてきたということでもあり、現代の汎用 OS にとって必要な機能が多くの点で共有されていて差がなくなっているということであろう(ファイアーウォールがない OS をウェブ・サーバの運用に使おうとは思わないだろう)。これは、それぞれの OS に愛着をもつ人々にしてみれば残念なことだろうし、それゆえに些末としか言いようがない点にこだわって語り続けるような人が増えて、下らないディテールの話ばかりがブログ記事に書かれて本質的な仕事や生活の道具としての話が増えないという結果に終わる、オタクならでわの状況にもつながるわけだが、僕に言わせれば緩慢な自殺行為でしかない。

しょせん、道具は道具であり、そこでのこだわりには限界がある。僕らが望んでいるのは、更に現状の大勢を乗り越えるような方向への飛躍であり、それは OS の実装とかメンテナンス(これを続ける人々に感謝するべきなのは確かだが)のレベルでは成し遂げられない理論の役割だ。そして逆に、コンピューティングの環境を使って成し遂げられる実用なり実務を指向した飛躍も必要である。これもまた、OS をどれほど洗練させたところで、特定の OS を使うからこそ Apple や Google が誕生したわけでもないという歴史が十分に実証していよう。要するに、OS のディテールにだけこだわっていても、古くから言われるように、理論と実践のどちらにおいても人の知恵は生理的な制約など幾つかの理由で限界に達する(五つの目がなくては使えない画面など発明しても人には使えない)。

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