Scribble at 2020-08-31 08:40:26 Last modified: 2020-09-02 09:22:00

学会に実務家として敵対するというのは(僕の場合は単に国内の学会を無視しているだけだが)、たいていの場合には「安楽椅子の学者ども」に対する《実学志向》の人間が抱く敵愾心のようなものを指しているが、情報セキュリティやプライバシー法制という分野では(少なくとも僕がもっている印象では)少し意味合いが違う。われわれディーセントな実務や事業を志向している人間から見ると、日本のプライバシー法制や業界規範を産官学の連携というよりも牽制関係で構築したり維持している幾つかの学会は、牽制関係それ自体が自己目的化していて、国民の個人情報やプライバシーや情報セキュリティについて常に不徹底で不正確で不適切な施策や方針や規範を提案したり制度化してきたと言ってよい。その象徴が、プロパーだけでなくわれわれ実務家からも「ザル法」と見做されている個人情報保護法だ。

何かといえば、具体的で詳細なルールを作ると「時代の流れ」に対応できなくなり、頻繁に修正しなくてはならなくなるため、原則や一般的な指標を示すのが安定した法源であるという、要するに官僚や事業者の裁量でどうにでもなる現実を追認するだけの愚かな法思想によって条文が維持され、プロパー(この脈絡では法務官僚や弁護士や学者を含む「法曹」という意味で言っている)がやっていることは、哲学的には幼稚としか思えない概念操作だけだ。

僕が何度か「LINE学会」と呼んできた情報法制学会(ALIS)や、それから情報ネットワーク法学会といった学会は、連携だの牽制だのと称しては広告代理店や通信キャリアを巻き込んで(そして巻き込まれて)、実際にはパーソナル・データの主体である僕ら国民はおろか、企業で実際に個人データを扱っている実務家にすら知りえないような闇会議で官僚との交渉材料を組み立てている。そういう人々が個人情報保護委員会を運営し、プライバシーマーク制度を監督し、JISにもとづく認証や審査にたずさわり、そしてプライバシー法制や各種の制度にかかわる出版物の執筆から、果ては最高裁判所での判断までを仕切っているというわけである。結局、日本のプライバシー法制の杜撰さやレベルの低さは、マッチポンプなのだ。

僕が、国内の認証制度をビジネスとして導入しつつも、人として国内の規範やルールを超えたベターな実務を目指すと内外に宣言している理由は、これである。《企業内の哲学者》とは、そういう役割を担っているのであり、フランスかぶれのエロ漫画野郎みたいな、ベンチャーの PR 担当でしかないお飾りの「哲学担当取締役」などとは違って、実務でも圧倒的な能力がある人間の社会的な責任というものである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook