Scribble at 2020-07-18 09:20:21 Last modified: 2020-07-18 09:35:11

ようやく高校数学の復習も終わりに近いのだが、長岡亮介氏の『本質の研究』を三冊使ってノートを取ってきて、やはり数学教員や数学者の書く教科書は雑だということが改めて分かった。特に終盤の微積分や二次曲線の解説に進むと推論の省略や飛躍があちらこちらにあり、「~を展開すれば」と書いて5つくらいの式の変形を、参考になる類例も出さずに簡単に省略してしまう。こんな記述の仕方では論理的な思考力など身につかず、せいぜい頓智や「数学的センス」などと呼ばれる、実質的には思い付きを当てはめてみる trial and error の回数の問題でしかないものを求めるだけの偶然に頼った指導方法にしかならないだろう。そういう意味で、こういう本が「理論的」な参考書としてもてはやされている数学教育の実情が100年以上も旧態依然として全く変わっていないという事実に、或る意味で圧倒される。もちろん、これは trial and error に費やす時間の問題でもあるから、たいていは色々と試したり他の本を参考にして調べながら勉強を進めていけば解決する類のものなのだが、たまたま費やした時間が少なくて済むような頓智に聡い者が受験に適応していくということであれば、やはり大学の数学科なり理学系の学科へ進学する学生がどれほど増えようとも、有能で一定の業績を上げるような人々の歩留まりというものは、たいして変わらないのだろうと推測がつくし、現に事実としてそうなっているだろう。

雑感として数学教員の大半は、「論理的な思考」というものを所与の前提条件から結論を導く演繹なり導出のことだと誤解しているのではないか。ゆえに、或る問題を解くにあたっての前提条件としてどのような定理が利用できて、設問の条件から何が《言えることになるのか》も、生徒には分かっている筈だという、都合のいい想定を不問にしたまま参考書や一般向けの本を書くから、数学の本というものはたいてい予定調和的に《うまく定理を当てはめられる》展開の仕方とか、設問から《うまく定理に当てはまる》条件を設定できる仕方とかが、ぜんぜん説明されずに進行して、読んでいる方はご都合主義的なストーリーのテレビ・ドラマを見せられているような体裁になり、そして多くの人たちはストーリーを眺めることと理解することが別のことだと気づかずに終わってしまう。そして、予備校などが発行している幾つかの参考書が喜ばれているのは、そうして不問とされている想定が当たり前ではないという前提で説明されるからなのだろう。繰り返すが、或る問題を解くにあたって A という定理が《使える》のはなぜなのかということを説明しない限り、それは出来合いの前提から結論を導くだけのことであって、そんな形式的な操作を幾ら教えても処理系に必要な値を入力した末の処理を教えているのと一緒であり、そんなものは数学教育というよりも、人を(安物の)コンピュータに仕立てているのと同じである。

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