Scribble at 2024-12-24 17:14:55 Last modified: 2024-12-24 17:54:41

Google Plus というサービスにあった圏論のコミュニティで管理者をしていたのは、もう6年くらい前になるだろうか。それからも圏論に関する本は続々と出版されていて、京都学派などという些末なテーマしか研究することがなくなったらしい林晋氏といっしょになって「科学哲学者は無能だらけ」認定をして回っていた、Oxford で量子力学をやっていた人物も、圏論なりトポスの教科書を書くと豪語していながら、結局は青土社からポモのチラシみたいな本を出すにとどまっているようだが、いずれにせよ日本での出版ブームは沈静化したもようだ。

もちろんだが、ここ10年くらいの出版・翻訳の馬鹿騒ぎを通じて圏論を学び、何かコンピュータ・サイエンスに劇的な業績をもたらしたエンジニアなど日本に一人もいない。圏論(あるいは関数型言語でもいいが)を学んで仕事に活かしている可能性がある人はいると思うが、どのみち Preferred Networks のような最先端の企業で働く一部の人材だけであろう。富士通やアクセンチュアといったゼネコンやいんちきコンサルで暇潰しに『情報処理』や日経の雑誌に記事を書いているような手合から、真に学問や技術を押し進めるような真の知見は、彼らを逆さにして圏論の原書を丸めてケツから押し込んだところで、何も出てくるわけがないのである。

こうして一つの事例だけを10年くらいに渡って眺めていても感じることとして、やはり竹尾先生が「手始めに翻訳から入るのは仕方ないとしても、なるべく原書に学ぶ方がよい」と言われていたことは、或る意味では正しいと言える。だが、必ずしも常に正しいわけでないのも明らかだ。もちろん圏論だろうと他の分野だろうと、原文で書かれた本にこそ世界の真理が記述されているわけではないのであるからして(実は竹尾先生の文体を真似ているのだが、弟子筋でないと気付かないネタだよな)、日本語で学ぶか英語で学ぶかによって世界の真理への関わり方が根本的に異なるとか、あるいは速く真理へ到達するといった馬鹿げた妄想を仮定する必要はないからである。それは、つまるところ古典の祖述家などが、翻訳よりも原書でこそ著者の真意を正しく理解できるなどと口走っている話と同じであって、著者の真意を理解するだけで世界の真理に迫れるという、古典の研究者によくある致命的な錯覚の反映でしかない。

ともあれ、翻訳がいくら多くても、それだけでは学術的にもビジネス的にも大きな業績を上げるような人材は増えないということだ。むしろ、なまじっか翻訳が多いと、英語の勉強についてもここで書いている話だが、翻訳された本を読むだけで興味としても自足してしまう錯覚に陥る人が多いのではないか。つまり、翻訳された(或る意味では離乳食とも言える)本が多すぎて、文化的には下方圧力になってしまっている可能性があろう。洋書にまで手を広げるということが、単に海外のことを知るというだけではなく、もっと高いレベルの議論を知るということでもありえるのに、自ら自分の関心や興味に「翻訳された本だけで事足りる」という蓋をしてしまっているわけだ。

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