Scribble at 2023-01-22 13:40:04 Last modified: 2023-01-22 13:40:58

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4月から各地の動物病院で新たな国家資格「愛玩動物看護師」が勤務を始める。採血や投薬など、獣医療行為の一部を担う人材の登場に、獣医療の高度化で長時間労働が課題となっている獣医師の働き方改革にも期待がかかる。(山下智寛、松下聖)

ペット医療が高度化、動物病院にCT・MRI…獣医師「忌引休暇すら取れない」

当家では長らくセキセイインコを飼っていた。僕が実家を出た後も両親でセキセイインコを飼っていたようだが、母親が亡くなる数年前に死んでしまい、それが悲しくて動物を飼うのはやめたという話を聞いたことがある。当家では、これまでに何十羽とセキセイインコを飼ってきて、死なせたり、あるいは逃げられたりしているのだが、常に「とり」と呼んできた。わざと一般名詞(それでも名前を付けているからには、彼らとは関係のない勝手なことであるには違いない)でしか呼んでこなかったのは、一羽ずつしか飼っていなかったからでもあるが、人に付けるような名前で呼ぶことにはどうしても抵抗があったからである。

簡単に言えば、ペットを飼うというのは奴隷の使役と同じであり、ヒトの社会が乗り越えなくてはならない未熟な感情とか文化の残滓である。自称愛好家がペットを「家族」だなどと勝手に称している傲慢さには耐えられないものがあるけれど、せめて苦痛なく過ごせるように扱ってもらうことを望む他にない。このような業と言うべき罪深い文化を残していながら、そのコストが高額になるといった不平を口にする愚劣な連中がいるわけである。もちろん、獣医に診せて高額のお金がかかるということだって、動物にしてみれば関係のない話ではあろう。確かに病気やケガで死ぬことを無条件に「自然の摂理」だと言っているわけではない。ヒトも結局は適当に進化して文明をもつていどのサルにすぎないのだから、サルとして他の動物を使役する習性があり、そのために医療とか貨幣といった制度をもっているということにすぎないからである。人もまた、ペットを飼っていようと科学哲学の研究をしていようと、動物として適当に振舞っているだけのことであろうから、それもまた「自然」の一部なのである。よって、不自然だからペットを飼うのはいけないと言っているわけではない。単に欺瞞だからだ。

確かに、終末期医療の手法としてセラピーに動物を使うといった効用もあろう。死ぬのが恐ろしい(僕もそうだ)という現実に襲われる人の気晴らしとして動物が役に立って何がいけないのかというわけである。なるほど、動物は休日出勤手当など請求してこないので、便利な「道具」ではある。しかし、それを乗り越えることこそ(もちろん哲学はそういうテーマを二千年以上も前から持っていたわけだが)われわれが目指しているところではないのか。それを否定するのは、僕には単なるセンチメンタリズムにしか思えない。なぜなら、そういうところを目指してもただちにロボットみたいな人物になるとは限らないからだ。寧ろ、僕には安っぽい感情に流されるような人間こそ、犬と同じていどの「機械的な」生き物に思える。

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