Scribble at 2022-02-21 09:33:28 Last modified: 2022-02-23 09:37:50

プライバシーの概念について民法や商法、あるいは法哲学でも法社会学でも、アメリカには色々と先行する業績がたくさんあって、関連する技術を考慮しての制度設計とか規範の提案も、日本の小さい私企業で CPO を務める僕らですら多くの成果を NIST などの公表文書で利用できる。技術の考案においても、それから設計から現実のサービスへ至る実装においては、プライバシーにかかわる制度として最も厳格な基準を擁している EU 圏よりもアメリカが突出しているのは事実だ。そして、学術研究の成果として PET (privacy enhancing technologies) もしくは PPT (privacy priserving technologies) についても、少なくともオンライン・サービスにまつわる PII の取り扱いについては、既に20年以上にわたっての蓄積があるにも関わらず、依然として規制の起案や規範の提案が大きく遅れているのが現状だ。

PET あるいは PET の成果を利用して公共政策の立案を議論するカンファレンスを記録した proceedings が Springer から出ていて、これは20年前から発行されているが、いまだに GAFAM をはじめとする企業への有効な牽制にはなっていないというのが実情であろう。また、実際にプライバシー情報や PII を現実の人間の権利や名誉に関わる、場合によっては致命的な情報であるという自覚のない、西海岸のコーディング小僧や起業家たちの純粋な「上場ゲーム」の感覚だとか、あるいは日本で言う「ものづくり精神」のような、根本的に愚劣で愚直な凡人の善意だとか熱意を押しとどめることは、おそらく法律とか社会科学には不可能な目的なのであろう。また、アメリカの社会科学者ですら、common cause にかかわる社会運動家と比べて、そういう目標を抱いて研究に従事しているのかどうかも疑わしいというのが僕の見立てである。それぞれの立場や視野において、それぞれの〈ロール・プレイング・ゲーム〉に興じるという刹那的とも言うべき快楽に没入する自意識というのが、本当のところアメリカで起きている「学者ごっこ」の実態ではないのかという気がしなくもない。"We Restless Souls" という書き出しで始まるストーリーらの Why We Are Restless On the Modern Quest for Contentment という編著があるけれど、"restless" と評価されるような時間だけが問題なのではなく、制度化された教育や学術において "fulfilled" であるかのような錯覚に陥っていることにも問題はあろう。

そう思うと、フィールドワークなり世界各地で起きている状況へのコミットメントが、アメリカよりもヨーロッパの研究者に多くを負っているというのも、なんだか分かるような気がする。もちろん、それは或る意味では古臭い、宗教的な信念という自己欺瞞に理由があるのかもしれないが。

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