Scribble at 2000-05-28 00:00:49 Last modified: 2022-09-23 11:52:44

これは奨学金について学生へ何かのアンケートをとったときの回答例です。

・「金がほとんどかからぬ観念的な研究をしている人に比べて、経済史・経営史の研究は、資料代・ヒアリングなどでとにかく金がかかる。なのに、奨学金の額は一緒。不公平に思う。」

・「私立大の方が学費が高いのに、日本育英会からの奨学金(貸与)の額が一律一緒なのはおかしい。」

一つめは笑い話にも見えますが、なるほど「観念的な研究」をしている人よりもお金はかかるでしょうね。でも「殆ど金がかからぬ」って、まさか哲学の学生(とかが念頭にあるのでしょう)が本も買わずコピーもせずに、あるいは遠方の大学で開かれる学会へ行くこともなく、頭の中だけで学位論文の構想を練っているとか思ってるんだろうか。それに、金がかかる人にもっと増額しろという理屈なら、経済史・経営史の研究よりも金がかかると思われる分野の学生には、もっと多額の奨学金を貸与してよいという理屈になります。確かに結果として経済史や経営史の学生には哲学とかそれ以外の「観念的な研究」をしている学生の5倍という額が貸与されるかもしれませんが、それは1万円と5万円の比かもしれません。で、もっと必要な分野の方には月額50万円が貸与される(パイの大きさが変わらなければこうなる)。めでたしめでたし・・・ああ、なんか2ちゃんねるの哲学叩きスレッドみたいだ(笑。気を取り直すと、上に挙げたどちらの意見も院生それぞれの実状に合わせて貸与額を決めるのがよいという気楽なことを言っているのでしょう。まあ確かに、わたくしを含めて大学院生の経済的な環境がはかばかしくないということは分かります。しかし、どちらの意見も結局は「あいつじゃなくて俺によこせ」と言ってるだけのように思えてしまう。実状は分かるのですが、どちらも立ち上がって拍手喝采するほどの主張ではありません。上に紹介した全国大学院生協議会では、もちろん独立行政法人化や、あるいは留学生の話題も扱っています。わたくしもトピックを設けたいように思いますが、手一杯につき他の話題ですらいまのところ何とも形にできません。

・「子供のいる大学院生もいる。託児所を学内につくって欲しい。」

昔懐かしきアグネス論争を思い出す。まぁ少なからぬ割合で、子供をつくったのは(もちろん相手やその親からのプレッシャーもあったでしょうが)結局はあんたの勝手でしょうと切り捨てられるような意見ですね。まあ幼い子供をもつ親が在学生の中で無視できないほどの割合を占めるといったことになれば、託児所をつくる「べき」かどうかを云々している場合ではなくなるかもしれません。しかし現実には、子供をつくってなおかつ研究してゆくには覚悟がいるだろう、そういう苦境に耐えられないならどちらかを諦めなさいと。しかしそこまで高いハードルを越えなければ、幼児を抱えている人は大学院で学べないのか。これは一概に結論が出せないです。ちなみに、わたくしが上記の意見を「女性が述べている」と仮定していないことに注意して下さい。残念なことに、まだ子供の面倒は「主として母親が看る」ということになっているので、確かにその前の恋愛だの何だのは当人たちの勝手で自由にやっているわけですが、ひとたび子供が生まれてしまうと子育ては「女性の責任」になってしまう(つまり勝手にほったらかしたりできない、と多くの女性自身も考える)。しかし上記のような意見がもしも真剣に考慮すべきものであれば、それが女性の述べた意見であるかどうかは本質的な論点ではないのです。もちろん、母子家庭や父子家庭の親が大学院で学ぶときのハードルを下げる「方がよい」というのは、殆どの人が反論し難い。しかし義務教育でもない大学院では、託児所を設置して保育士を常駐させるといったことにも違和感があるでしょう。たぶんこれは学問そのものについてどう理解しているかという論点にかかわるのだと思いますが、恐らく多くの人は学問が有用であることを自覚していながらも、「別に誰がやったっていいし、誰ができなくても社会的なリスクにはならない。できる人たちだけがやっていてもいいことなのではないか」と考えているのだろうと、思うわけです。他方で、学問や知識は全ての人に対して開かれて「いなければならぬ」と主張する人がいて、実はこの二つの理解に齟齬はない。前者を述べている人も、全ての人に開かれていれば「それはそれでよいだろうとは思う」でしょうが、現実にはそれは難しいと考えるだけだろうと。

・「[図書館を利用するために発行される]共通閲覧証の国立・公立大学間の格差も問題。」

院生のくせに「問題」とかいった意味の分からない言葉遣いをしている時点で問題だ(笑。しかし言ってることには一理あります。院生が閲覧したりコピーする雑誌論文とか書籍は一冊や二冊ではないですし、他大学の図書館へわざわざ赴くならその機会に必要な資料を全て閲覧したいと思うのは自然なことでしょう。でも他大学の学生はドクターですら書庫に入れない場合が多いわけです。とりわけ入館カードを自動判別機に通して入館するようなところだと、気軽に他大学の学生が立ち寄ることもできません。また雑誌の論文などを検索する場合は、参照している論文が掲載された号の後に出た雑誌を見て批評が載っていないかどうかを調べたり、あるいは一日がかりでその図書館に所蔵されている巻を全て見たいと思うことだってあります。こういう場合、一冊ずつ司書の方に運んでいただくよりも書庫に入れてもらう方がよいと思うわけですが、そうもいかないようで。あ、それから共通閲覧証については効果が期待できないので無視してます。国立大の場合、うちもそうですが先生方の研究室におきっぱなしというケースが多く、またそれ以外でもあちらこちらに散らばった分室にあって、非常に面倒です。お金はかかりますが、雑誌ならコピーを送ってもらう方がいいでしょう。あるいは修士や学部の方であれば、わたくしのように雑誌のコピーを山ほど抱えている先輩に照会するとか。気を取り直しましょう。なるほどアンケート用紙を送付したりするのに費用はかかります。洋書だって必要なものを片っ端から買えばすぐに資金がなくなってしまいます。で、その人がやりたい研究に必要な資金というものは、研究分野だけでなく研究者それぞれについてもばらつきがあります。すると、単純にパイの大きさが決まっている場合に、さきほどの人物が言うような奨学金の公平な配分はどのように達成できるでしょうか(こんなとこで気軽に書いていいかどうか怪しくなってきたが)。第一は、社会にとって役に立つ分野を優先するということでしょう。すると、残念ながら哲学どころか経済史も減額の対象になるでしょう(本人は、気の毒にそう思っていないようですが)。第二は、研究するために必要な金額を正直に申告して、その通りに貸与される保証はなくても、それぞれの研究者どうしで申告した額の比率に応じた額を貸与するということでしょうか。これだと、上に述べた悲惨な結果になる可能性が高いでしょう(哲学より比率としては多いが、額そのものが少ない)。実は、学問どうしでそうした言い合いをすること自体に文句はありません。「哲学は何の役にも立たないじゃないか」という批評は、ない方が不健全です(こうした批評に学問の自由を盾としてあてがうようなことは不健全だと考えるわけです)。その結果として例えば大学の哲学科を廃止するという方針が打ち出されても、或る意味で驚くかもしれませんが、わたくしは別に不当ではないと考えています。

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