Scribble at 2022-07-11 16:06:23 Last modified: 2022-07-12 11:21:45

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鹿持雅澄関連資料(地理・地名・年譜)

地図のページは名称を変更した。「鹿持雅澄関連資料(地理・地名・年譜)」としたのは、もちろん「鹿持雅澄年譜」を追加したからである。先週から(投票はもちろん行ってきたが)鹿持雅澄に関連して幾つかの調べものとかウェブ・ページを読んでいると、やはり和暦と西暦の対照がつかないし、共時的な対応関係だけではなく、他の和暦で言及されている年が何年後のことなのかという通時的な対応関係も分からない。もちろん、考古学徒を名乗りながら和暦も覚えていないなんて恥ずかしい限りなのだが(歴史学者ではなく考古学者であっても、天皇の諡や和暦くらいは常識として全て暗記するのがプロパーの義務ですらあろう)、ともかく照合がいちいち面倒臭い。これは『やちまた』を読んでいても同様だ。別に開き直るわけではないが、和暦すら覚えていない未熟な国民であることは承知の上で、和暦から西暦へ換えて関係を有効に活用するべく、こういうものでも作っておこうとしたわけである。

さて、年譜を作っていて気付いたことなのだが、鹿持雅澄が64歳という晩年の頃、彼がまだ教授館の校合役を松本弘陰と共に勤めていたときのことだ。1854年11月5日に安政南海地震という南海トラフが震源の大きな地震が発生した。これにより、現代の推定では震度5か6の揺れが起きたとされているため、当たり前だが当時の弱い構造で建てられた建築物は倒壊したことであろう。もちろん海岸に近い集落では津波にも襲われているため、土佐藩でも混乱が起きていたはずである。このとき、小関氏の年譜によれば鹿持雅澄らはしばらく校合役の仕事を自宅で行ったそうであり、いまで言う「テレワーク」状態であったと思われる。なお、ここで書かれているのは旧暦であり、現代の新暦では12月24日という時期にあたる。

この地震について調べていると、東大が「地震史料集テキストデータベース」というサイトを公開している。しかし、まったくアクセスできない。テキストで簡単にデータを引っ張り出せるようなので、おそらく色々なところからプログラムでスクレイピングされているのだろう。特に最近は Python でスクレイピングしようなどと勧めるロクでもない物書きや開発者がいるようだが、こうやって僅かな人数がリクエストを回し続けるだけで、東大のように貧弱な回線とサーバしか使ってないようなサイトではひとたまりもない。そして、集めたところで活用できもしないデータを大量に回収する馬鹿どものせいで、ごく普通にサイトを利用するユーザの迷惑になるのだ。僕が、例の「岡崎市立中央図書館事件」について、当該事件の被告は無罪だと思うが、だからといってスクレイピングやプログラムによる自動リクエストを幾らでも回していいなどという不見識が素人に罷り通るのは、我が国のような文化的後進国(アダルト・ビデオやエロ・アニメなどは先進国らしいが)の民度においては、まだ自由を享受できる段階にないと思う。

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