Scribble at 2024-11-28 09:48:45 Last modified: 2024-11-28 10:24:47
14世紀にムプ・タントゥラルという人物がジャワ語で書いた詩の『スタソーマ』に "Bhinneka Tunggal Ika" というフレーズがあるという。これは、多くの本では「多様性の中の統一(あるいは調和)」と訳されているが、政治家、あるいは実は言葉で仕事をしていながら言葉について何の素養も知見もないバカどもが、これを「多様性の統一」などと言うことが多々ある。たとえば日本共産党は、こういうデタラメな翻訳をスローガンにしたことがあるらしいし、他にも通俗的な本で生半可な解説をして、マイナーな東南アジアの歴史も知っているなどと碩学ヅラしているようなクズ物書きや三流の大学教員なども、軽々にこういう表現を使うようだ。そして、あいかわらず『産経新聞』にものを書いているインチキ保守や無知な右翼なども、そういうデタラメな表現に向かって「多様性と統一は矛盾である」などと小並感たっぷりの批評をして何事かを主張したり指摘したつもりになっているらしい。こうした、無教養で、言葉のことなど精密に理解したり運用するつもりもない、ガラクタ文章を書いているバカどもは放っておこう。
さて、少なくとも哲学史の冒頭に出てくる古代ギリシアの説明だけでも読んだ方であれば、こういう観念はイデア論と呼ばれている議論に何らかの関わりがあるのではないかと類推するかもしれない。しばしば、イデア論の一つの解釈として "one over many" というフレーズが使われていて、これは現代の英米哲学で頻出する業界用語の "type vs. token" という対比を支える着想にも関連があると言っていいだろう。だが、人類史スケールの保守思想家として言えば、これらは思想史として現実に研究者どうしの著作において影響関係を連綿と継続してきた結果であるというよりも、人の認知能力なり思考の強力なパターンであるがゆえに、色々な時代や地域や人々によって発想されうることだったのではないか。つまり、これら似たような観念が多くの時代や地域で語られたという事実は、それらが現実の影響関係にあったということを示すのではなく、それらが全て人類のもつ認知能力という共通原因からもたらされた結果のバリエーションであると考えるほうが妥当であろうと思う。